阿部理(1993年/バスケットボールコーチ・コメンテーター)

インタビュー実施日:2023年8月27日(日)

原:2019年卒の原と申します。自己紹介を含めて、現在のお仕事や卒業後のキャリアについて教えてください。

阿部:1993年卒の阿部です。卒業後から現在までずっとバスケの道を歩んでいます。卒業後は今で言う、JFEスチール、デンソー、 新潟アルビレックス、トヨタ自動車と移籍し、プロ選手として活動を続けてきました。その間に日本代表としても7年間活動し、「日本ではやり切った。」と思い34歳の頃から13年、NBAにチャレンジをしていました。帰国後はバスケのコーチング業やコメンテーター、エージェント業へのサポートなど、幅広く活動しています。

原: 今のお話の中でも、やはりNBAへ挑戦されていたという点が気になりました。当時、そのような挑戦をしようと考えた背景や挑戦時のことなどを教えていただけますか?

阿部:「あの華やかな舞台に立ってみたい。どんな世界なんだろう。」とずっと考えていましたね。その背景を言うと、自分の場合は高校時代まで遡ります。当時はインターネットも発達していない時代でしたが、テレビ東京が土曜深夜にNBAを放映していました。当時は仙台に住んでいたので見ることができない中、東京に住んでいた叔母にビデオを録画してもらい、仙台まで送ってもらっていました。それが届くのが今思えば、高校時代の1番の楽しみでした。そのビデオを擦り切れるほど何回も見て、当時のNBAを席巻していたレイカーズの『ゴールドカラー』と、セルティックスの『グリーンカラー』は脳裏に焼き付いていました。

そのような高校時代の経験もあり、NBAに挑戦しようと考えた際に、レイカーズの本拠地であるということに加えて、フィル・ジャクソンというレイカーズの名将・名コーチがいたということをもって、ロサンゼルス行きの飛行機に乗ることを決めました。

とは言え当然のことながら、飛び込みで行って簡単に通用する世界でもなく、マイナーリーグの試験を重ねて受けに行っていましたね。さらには怪我や病気の影響もあり、日本に戻らざるを得なくなってしまいました。本当に色々ありましたが、ただただ思いの強さだけであの13年間は走り抜けました。

当時の練習時の風景
写真提供:阿部理氏

原:バスケットボールに対してそれだけの熱量を込めて続けられている方は世の中を見渡しても本当に一握りだと感じます。そんな阿部さんが学生当時、慶應大へ進学しようと思った理由は何だったのですか?

阿部:一つの大きな理由は、当時の監督でありスカウトも兼任されていた小田さん(一昨年11月に他界)の存在でした。元々、高校へ入学した時はバスケでずっとやっていける自信もなく、目標は地元の国立大学である東北大学にストレートで入ることと、県で優勝して全国大会に出場すると言うことでした。結果として、宮城の2位で東北大会に出場して準優勝しウインターカップ(全国大会)に出られることになりました。自分たちのチームは特に注目もされず、勝ち上がれないだろうと思われていましたので、そんな人たちを見返したいとチーム全員が奮起し、全国大会ベスト4まで勝ち進むことができました。その辺りから大学でもバスケでやっていけるのではないかと思い始めました。

そのようなタイミングで、小田さんが大雪の中の秋田の試合や神戸ウインターカップにも視察に来てくださりました。高校生ながらにこんなところまで足を伸ばしてくれたことに嬉しさを覚えていましたし、これは後で聞いた話ですが、高校の先生にも「阿部がほしい。」と話してくださっていたようでした。加えて、同じ仙台二高出身の渡邊信治さん(1988年卒)が慶應大バスケ部にいらっしゃったこともあり、慶應という存在がすごく身近になっていく感覚があったんですよね。

原:高校時代から慶應義塾大学との接点が生まれていたことが大きな要因だったのですね。

阿部:そうですね。実際、やはり印象に残るじゃないですか? あの人が来てくれたとか、声をかけてもらったとか、助けてもらったとか。自分の場合は高校の先輩が慶應に進学していたということも大きなきっかけだったので、そのご縁で繋がったのかなと今では思いますね。

原:高校生の頃にそのような経験があると、確かに印象に残りますね。

次の質問になりますが、大学入学後、バスケ部での活動で印象に残っているエピソードなどはありますか?

阿部:ヘッドコーチの伊東さんの家で泣きながら腕立て伏せをしたことですかね。(笑)

入学当初は高校時代の活躍もあり、かなり期待をしていただいていました。ただ、1年目は全くダメで、春のトーナメントでは負け、早慶戦も敗北、2部のリーグ戦は8連敗から始まるという状況でした。

2シーズン目を迎えるタイミングでコーチが代わりました。伊東さんはコミュニケーションをとるために選手を自宅に招いて頻繁に食事を振る舞ってくれていました。今振り返ればポケットマネーもかなり出してくれていましたね。

チーム内の風通しが少しずつ良くなってきていましたが、自身はスタメンから外され「1番上手い俺がベンチスタートなんて間違っている!」という悶々とした思いがありました。自分はバスケを辞めた方がいいのではと思うくらい悩んでいました。その際、白井先輩(1978年卒)という(今でも尊敬する)方に、「お前このままでいいのか?」とけしかけられて、「悔しいです!」と答えたところ、「お前の意気込みを見せてやれ!俺と一緒に腕立て伏せするぞ!」と、伊東さんの家のダイニングで、最後は泣きながら2人で腕立て伏せをしていました。今思うと馬鹿なことをしていたなと思いますが、心のスイッチが入った瞬間でもありました。(笑) このような熱く思いのあるOBが沢山いるところも慶應のよさかと思います。

原:その場面を想像したらすごい絵が思い浮かびました。(笑)

阿部:ですよね。(笑)まあそれですぐに結果が出るということもなかったのですが、そのほかに大学2年の時に、一つの大きな出会いがありました。その方はスチュー・インマンさん(NBAポートランドトレイルブレイザーズのGM)で、慶應の夏合宿等のタイミングでコーチをしに日本に来てくれていました。彼のアメリカでのコーチキャリアは結構凄くて、そんな彼に自分たちは一人一人アドバイスを貰えたのです。そんなインマンさんから、「阿部はナショナルチームの選手になれる存在だ。頑張ってみろ!」と言って頂けたのです。当時、結果も出せず自信を失っていましたが、輝かしいコーチキャリアを持つ方からそのように言って頂けたことは、非常に大きな自信になったんです。そこでまたスイッチが入ったような感じでしたね。大学卒業後もインマンさんにはお世話になっていましたし、今考えても自分のバスケットボール人生の中で一番影響を与えてくれた方であり、心に刻まれた言葉だったと思います。

学生時代、早慶戦時の様子
写真提供:阿部理氏

原:当時のその言葉が今も続く阿部さんのバスケットボール人生のベースにあったのですね。

阿部:自分の拠り所となる言葉でした。人って、ずっと自分を信じ続けられるわけじゃないですよね。怪我もしましたし、病気にもなりましたし。改めて慶應に入っていなかったらあのような出会いもなかったですし、やはりご縁ってありますね。

原:阿部さんの中で、このような学生が慶應に向いているのではないか? というお考えはありますか?

阿部:「社会を良くしていきたい」という思いがあり、リーダーとなって行けるような人物ですかね。これは福澤先生の「社会の先導者となれ」というような言葉に繋がります。正直、慶應に来られる人って、ある程度恵まれている人だと思います。それは両親の経済状況であったり、地頭が良かったり、健康的に動ける状態であったり、あらゆる意味で財産と呼べるものがある人なのだろうなと。その恵まれた状況を自分のためだけに活かすのではなくて、他者のため、社会のために活かせるような人が慶應には向いているのかなと思っています。

他の大学には行ったことがないので比べられるわけではないですが、夢やロマン、志といった言葉に何か揺さ振られるような感情がある人は、慶應という選択肢も意識して見て欲しいですね。自分がやっていた時も、体育館と校舎と家の往復でしたし、とにかく無我夢中であっという間に4年間が過ぎてしまいました。先日、現役部員の皆さんにスキルトレーニングをする機会(2023年8月男子夏合宿を仙台にて行った際に)がありましたが、久しぶりに後輩達が真摯にバスケットボールに取り組む姿勢を見て、改めて自分自身も、後輩達とともにチャレンジしていきたいと思わせてくれる刺激を貰いました。

写真提供:阿部理氏

原:お話の中で夢やロマン、志という言葉がありましたが、阿部さんがバスケに懸ける思いやエネルギーの背景にあるものは何なのでしょうか?

阿部:まず「バスケが好き」ということです。それに加えて、「新たな景色を見にいきたい」という強い欲求のようなものがありました。

登山に例えると、仙台で最も標高が高い泉ヶ岳という山があるのですが、そこに登ったら宮城県で一番高い山の蔵王岳が見えます。それを見ると、「あの山も登ってみたら気持ちいいのだろうな」と蔵王山に登ると、次は日本一高い富士山が見えるようになるんです。「あれに登ったらもっと違った景色を見られるのでは」と思うわけですよね。そして見えはしないですけど、「世界で最も高いエベレストに登った時はどんな景色が見えるのだろう」という不思議なエネルギーが湧いてきたんですね。

バスケでも同じで、一つ一つステップアップするたびに、次の景色が見たいというような思いでエネルギーが湧き続けていたのだろうなと。結果としてNBAの舞台には辿り着けなかったので、バスケで言うエベレストに登り切ることはできなかったのですが、今再び新しい景色が見え始め、エネルギーが湧いてきている感じです。

原:最初は小さな山でも登るからこそ見えてくる景色があるんですね。

阿部:そうですね。あと、自分には「いじめのない社会」を作りたいという思いがあって、これも一つのエネルギーでありモチベーションになっていました。当時、怪我や病気もあって、辛い状況にいた自分に寄り添ってくれた先生がいました。そんな先生の息子さんはいじめが原因で亡くなられたんです。「そんな世の中はおかしい」という思いから、偏見や差別、貧困等を含む、いじめが無くなる社会にしていきたい。そのような社会に近づけるための影響力を持ちたい。その持ち方の一つとして、バスケを通じて世の中に輝きを与えられるような存在になりたいという思いが生まれたんです。自分のためだけではなくて、そういった志のようなものが生まれたことも、挑戦を長く続けることができた要因でした。

80年代のスタープレイヤー、マジックジョンソン氏と対戦時の様子
写真提供:阿部理氏

原:1点とてもお聞きしたいことがあったのですが、NBAを目指すというような周りの人と異なる道に進むという選択に迷いや葛藤はなかったのですか?

阿部:いや、めちゃくちゃ不安でしたよ。不安ですし、怖いですし、本当に「これでいいのか」と思い悩むこともありました。どう考えても確率は低かったですし、NBAに行きたいと言ったのは34歳の時でしたからね。100人いたら200人が反対するようなチャンレンジでした。でも、何度も自問自答をした結果、上手くいく、いかないは別にして、挑戦しないと生涯後悔すると思ったんです。自分が心底やりたいことや達成したいことは、たまたま周りの人と違いましたが、それもまた自分の宿命だと思って挑戦することを決意しました。

原:学生に限らず、社会人の方にも刺さるような言葉ですね。

阿部:あとは「旗を立てる」ことも大事です。慶應義塾の塾歌(校歌)にもそのような歌詞がありますよね。「旗を立てる」ことで、そこに同じ思いを持つ人達が集まってきます。「お前が立てた旗、面白そうだから応援するよ。一緒にやろう。」というような人が出てきてくれる。旗(志)とともに一生懸命取り組んでいくことが、やがて仲間との強い信頼と、繋がりになっていくのだと自分は思っています。

バスケットの神様マイケルジョーダン氏とプレー時の一枚
写真提供:阿部理氏

原:ありがとうございます。最後に慶應義塾を目指している、或いは検討している高校生に対して、メッセージをお願いします。

阿部:私自身も、大先輩の上谷さん(1960年卒/元監督)がご自宅の一階を自分と一つ上の小沼さん(1992年卒)に貸してくれるという大きなサポートのおかげで、慶應に4年間通うことができました。また病気と怪我の治療でアメリカから日本に戻った時(2000年代)も上谷さんには大変お世話になりました。縦のつながりが素晴らしい大学ですし、素晴らしいチームです。ただこれは入ってみないとわからない部分でもありますね。何はともあれ、慶應義塾という環境で文武両道を志す中、様々な経験を積むことができます。是非入学して頂き、自分に磨きをかけ続けてほしいです。皆さんの今後の学生生活、応援しています!

原:こちらでインタビューの方は終了とさせていただきます。本日はお忙しい中ありがとうございました!

写真提供:阿部理氏