信念の在処
「はじめに」
みなさんこんにちは。
慶應義塾大学文学部人文社会学科4年、ならびに慶應義塾大学體育會バスケットボール部で学生コーチを務めさせていただいておりました、橋本和隆と申します。
引退してはや1ヶ月、部活中心の生活から完全に抜け切った中でこのブログを執筆しており、遊び半分で書くわけにはいかないと、身を引き締めております。
諸先輩方の引退ブログを読みながら、何を書けば良いのかと色々と思案しておりましたが、ここはひとつ私の自己紹介も兼ねて書かせていただこうと思います。と言いますのも、このブログをご覧になっている方の中には、「学生コーチってなんぞや」となっている受験生や高校生の皆様もいらっしゃるかと思います。かつて私もその1人でした。また、普段から弊部の活動を応援していただいているファンの皆様の中にも、「橋本?そんなやついたか?」という方もいらっしゃるかと思います。
そんな皆様に、橋本和隆という一部員が、何を考え、何をしていたのかを入部から順番にお伝えできればなと思います。
「入部」
入部に至った経緯を綺麗にまとめようとも思ったのですが、自分的にはあまりしっくりこないので、理由的なものをいくつかあげる形式を取らせていただきます。
一つ目は、高校バスケにおける不完全燃焼だったと思います。「不完全燃焼」というと聞こえが良いですが、実態は「いろいろサボっていた自分への後悔のようなもの」です。私の高校バスケ人生は、試合途中で足を攣り、OTでろくに動けずに負ける、という終わり方をしました。まともにバスケをしていたら、週一回しか試合がないトーナメントの2回戦でこのような結果にはならないでしょう。恥ずかしい限りです。
二つ目は、浪人生活そのものです。浪人というと皆さんは過酷な勉強を思い浮かべると思いますが、私の浪人生活といえば怠惰そのものでした。体たらくな人間なら強く共感してくださると思いますが、このようなどうしようもない人間は「モチベーション」を過度に重視する傾向にあると思います(あくまで私個人の見解です)。怠惰な生活を送る中で、私は、モチベーションが「大学でバスケと勉強を高いレベルでやること」であると、苦し紛れの結論を出しました。
三つ目は、慶應バスケ部の存在です。ここまでが自分のだらしなさの羅列で、この理由が最後になってしまったことが悔やまれますが、自分の決断に慶應バスケ部の存在があったことは紛れもない真実です。
受験勉強が佳境に入っているはずだった2020年冬、YouTubeでバスケ動画を漁り、例にも漏れず「モチベーション」を高めようとしていました。そんな中CSParkの早慶戦ライブ配信を見つけました。試合を見た感想は「早稲田相手に慶應が途中まで食らいついている!?しかも進学校の人も活躍している!ワンチャン自分も活躍できるのでは!?」のようだったと記憶しています。入部してから思い知りましたが、この先輩はめちゃくちゃ上手かったです。まず、速すぎました。またぜひ串カツ田中に連れていってください。
その流れから、慶應バスケ部のブログを読むことになりました。そのブログには当時学生コーチをされていた方の思いが書かれていました。自分はシンプルにそれをカッコ良いと思いました。そして、ここまで考えてバスケをしている人がいる、という事実にショックを受けました。この方には入部後も、決断や悩み事があるたびにお世話になっています。今後ともよろしくお願いいたします。
そして、話の流れ的にこれが最初のきっかけになる気もしていますが、実は入部前から慶應バスケ部には友人がいました。彼とは中学の頃からの仲で、彼のバスケに対する熱やこだわりはなんとなくは知っていました。後から考えてみると、彼がいなければそこまで慶應バスケ部に興味を持たなかった気がします。浪人のせいでタメ語と敬語の使い分けでバグることになってしまったことが悔やまれます。色々とありがとう(ございました)。これからもよろしく(お願いいたします)。もうタメ口でいきます。
「学生コーチ」
私は大学1年生を選手、2年生以降(厳密には2年生の7月の早慶戦終了後)からは学生コーチとしてバスケ部で過ごしました。選手時代について振り返ることも色々と考えてみましたが、特にブログとして残しておくべきものが見当たりません。当時はバスケや組織について深く考えていなかったと思います。情けないことに、朝練(当時はありました)と午後練、その間の授業と昼寝、というルーティン化した生活を行うことで精一杯でした。
ただ、当時を振り返る作業の中でいつもよみがえる感覚があります。それは「いつか選手としてのクビを宣告される」という危機感。というのも、当時の自分たちの代はスタッフ職が1人もおらず、ゆくゆくは誰かがそれをしなければならないという雰囲気が漂っていました。そして実際自分が一番下手な選手だという自覚はありましたし、単なる練習の繰り返しに勤しんでいた自分が、その逆境を跳ね返せるほどの努力をしているという自信もありませんでした。ネガティブな話をすると、これこそが学生コーチに「自分から」なると決断した要因でもあります。
学生コーチになった理由を就活などで聞かれ、「チームへの貢献」「裁量権の大きさ」「システムなどを作りたい」などと綺麗な理由を吐き続けました。実際そういう面もないではないですが、後から考えてみれば、の話です。大学2年生の自分にあった思いといえば、危機感からの逃避と少しばかりの責任感だけでした。
こうして学生コーチになったわけですが、ここからはバスケ人としての遅れを取り戻す作業に忙殺されることになります。ろくに考えてバスケをしてこなかった自分には、コーチングをする上での全ての要素が欠けていました。ゲームを見る中での状況整理、スカウティングをする上での知識や動画編集での伝え方、選手に必要なスキルの見極めや練習メニューの組み方、そもそもの信頼度、など挙げてみればきりがありません。そして、ここに関してはそれなりの努力をしたつもりですし、人並みのコーチくらいにはできるようになったという自負もあります。
ただ逆の見方をすれば、この作業に忙殺されてそれに終始するだけで、自分の学生コーチとしてのキャリアは終わってしまいました。
私は、コーチの役割とは「自分の哲学に基づいて、チームがどこに進むべきかを提示すること」だと勝手に信じています。バスケに唯一の正解はない。ないというよりは、仮にあったとしても唯一の正解を探してれば、24秒や40分、シーズンや4年間はあっという間に過ぎ去ってしまうでしょう。だからこそコーチは、おそらく正解に近いであろう解を、それがチームとしての唯一の正しい解として提示し、選手にそれを徹底させることが必要になります。そして、そうしたプロセスを誰よりも自分が信じ、そして選手にも信じさせるだけの「哲学」を持っているべきです。この役割はHCであろうがACであろうが学生コーチであろうが変わらないと思います。ACや学生コーチにはHCの哲学を体現できるだけの理解力が求められ、そして、意見を戦わせることによってHCの哲学をサポート強化するための、自分の哲学を持ってなければならない、そう私は思っています。
振り返ってみると、自分にはこうした哲学を育むための作業が驚くほど足りませんでした。目の前の課題や相手への対策、足りない知識の習得、個別具体の事象に取り組むことに終始してしまいました。結果として今の自分には「哲学」と呼べるようなシロモノはありません。「嘘つけ、この思想つよ人間が」と、ある程度自分のことを知っている人は言うかもしれないですが、本当にありません。そうでないとしても、自分がその「哲学」を信じられるほど、それは良くできたモノではありません。
学生コーチとして話したいことや、こうしておけばよかったと思うエピソードは山ほどありますが、ここでは書かないことにします。そこら辺は個別で後輩に聞かれれば答えることにして(気軽に連絡してね)、ラストイヤーの話をさせていただきます。
「ラストイヤー」
結果としてみれば、何一つ目標を達成できない1年間となりました。最終学年となり、自分たちにとって初めてとなる冬季の大規模なオフが明けて始まったシーズンは、様々な出来事を経て、早慶戦敗退、3部リーグ残留という結果に終わりました。チームとして掲げたスローガンは”all out, all up to you”でしたが、チーム全体として体現できていたかといえば疑問が残ります。チーム全体に落とし込むことのできなかった自分並びに四年生の責任だと感じています。チームとしての総括は、後輩や時の経過に委ねるとして、この場では個人としての振り返りを続けさせていただきます。
個人的には焦燥感や不安感、苛立ちとずっと戦っていた1年間だったように思います。結果が出ないことはもちろんですが、自身の立ち位置や、何をするべきで、どこへ向かっているのかを常に模索していました。
ラストシーズン前の2年間、1個上の学生コーチのもとで学生コーチ業を行っていましたが、残した実績は皆無に等しいです。1年目は学生コーチ転向早々、リーグ戦のスカウティング全般を任せていただきましたが、リーグも二巡目に突入する頃に限界が来て、役立たずとなってしまいました。スカウティングをやるにはあまりにも知識不足でしたし、何より説得力に欠けていました。2年目にはバスケ人としてそれなりの形はできてきたものの、チームの一員としてどれほど役に立てていたか疑問が残ります。せいぜい個人のスキルアップや全体の支障にならない程度のアドバイスをするのが関の山で、自身の内向きな姿勢もありコミットしきれずにいました。
そんな人間が、いきなり学生コーチのトップになり、どうなるか。この問いとの向き合いが全てでした。先輩の学生コーチと比べられることを恐れました。さらに踏み込むと、「いつ自分がお役御免になるのか。選手から突きつけられるのか、HCから突きつけられるのか、後輩コーチから突きつけられるのか。」という考えが常に念頭にありました。チームやバスケのことは全て把握しているコーチでいよう、選手からどんな疑問が来ても答えられるようにしよう、HCを説得できるだけの材料を持っておこう、そして誰からクビを突きつけられても、突き返せるようにしよう。ある種の自己防衛として、ビデオを自分でも信じられないほど見ましたし、それに応じるようにバスケの知識も深まっていきました。どんなカウンターにも対応できる、それこそが自分が求めていた姿でした。
学生コーチに転向するとき、先輩コーチから言われたことが今でも頭の中に残っています。「義務感だけではできないよ」というその言葉は、当時の自分の心や2年後の将来を見透かすようでした。その後、必死にバスケを好きになろうとして、実際に好きになりました。ニックス(NBAチーム)の試合結果に一喜一憂する引退ライフを過ごしていますし、カレッジバスケも日米問わず見ています(学生バスケはいいですね)。それでもなお、「貴方にとって、ラストイヤーを振り返って感じたことは何ですか?」と聞かれたら、「義務感や不安感、焦燥感です」と答えてしまうでしょう。
「同期」
ここまで「自己紹介」という言葉に甘んじて、自分の内面しか書かないような形になってしまいましたが、こうした経験ができたのも全て周りの人がいたからでした。その中でもやはり同期は特別な存在だったように思います。学生コーチとしての自分に対する、周りからの信頼感のようなものは同期が作ってくれた面が大きいです。選手の皆よりキャリアのない自分が、生意気にものをいうことをいつでも許容し、信頼してくれました。田中は自分のスタッフとして至らない点を全てカバーしてくれて、コーチ業に集中させてくれました。一吹は、初めてミーティングで思いを聞いたあの日から、同じコーチとして、全く別の視点と緊張感を与えてくれました。
誤解を恐れずに言うと、逆に自分が本当に信頼を置けたのも同期だけだったかもしれません。自分が学生コーチになったのも、泰我、髙島、康月の練習量や姿に打ちのめされ、敵わないと思ったことにあります。4年間こいつらと戦っても無理だと思ったから、自信を失い、そしてサポートしようと思いました。だからこそ、結果を皆と出せなかったことを本当に悔しく思いますし、選手には「もっと良い選手にさせられたかもしれない」と上から目線かもしれないけど、申し訳なく思います。
皆は一生の友になる気がしています。ありがとう。そしてこれからもよろしく。
「最後に」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。おそらくこのブログの数倍は書きたい出来事や感情があります。しかし、たったの4年間でそれだけの経験ができたのは、紛れもなくOBの方々、先輩方、後輩の皆、そして家族のおかげだと思います。ありがとうございました。
今後とも慶應義塾体育会バスケ部への応援をよろしくお願いいたします。