ラストブログ 菊地康月

「自分らしさ」

〈はじめに〉

 誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。私、本年度慶應義塾大学総合政策学部4年、ならびに慶應義塾体育会バスケットボール部で選手として活動しておりました、菊地康月と申します。

 引退してすでに1ヶ月経ちますが、慶應バスケ部で過ごしたたくさんの日々は今でも鮮明に思い出せるほど、自分にとって濃い経験となっています。とはいえ私自身、チーム内での明確な役割や、試合での印象的な活躍もあまり無かったため、目立たない選手だったと自覚しております。故に、このブログは體育會の何たるかという話ではなく、「自分らしく」戦い抜いた私のバスケット人生の経験談にすぎません。拙い文章ではありますが、お時間がある際に読んでいただけたら嬉しいです。

〈バスケットボールとの出会い〉

 私は、中学校教員でバスケ部顧問をしていた父の影響で、小学3年生からバスケットをはじめました。私は京都の在住でしたが、父親の意向もあり滋賀県のミニバスチームに越境し、毎週末は親の車で練習に通っていました。はじめは、疲れる上に遊ぶ時間も減るので本当に嫌だったと記憶していますが、当時身長が周囲より高かったので、学年が上がり試合にも出られるようになり徐々にバスケットの楽しさを見出していきました。

 ミニバスと同時並行で中学受験を乗り越えた私は、迷わずバスケ部に入りました。そこでは私以外初心者ばかりで、唯一の経験者の私は1年生から試合に出場していました。ありがたくも京都府の代表チームにも入ることができ、初の全国大会も経験しました。(2024年現在宇都宮ブレックス所属の小川敦也選手率いる新潟県代表にボコボコにされるとともに、大阪府代表で後に慶應バスケ部同期となる髙島孝太郎とも対戦しました)

〈大学バスケへの志〉

 中学の一貫校で進学した洛星高校では大学受験を見据えて勉強に打ち込みながら、バスケ部では推薦で人を集める強豪校に競り勝つことが目標になりました。バスケに費やしてきた時間の多くを勉強に割く中で、これまで京都や全国で戦った同級生が強豪校の恵まれた環境の中で活躍するのを見て、何度も不安や焦りに苛まれたのを覚えています。そしてコロナの拡大で私の高校では部活が中断され、最後の大会もなくなり学内の紅白戦で静かに引退しました。比べて強豪校の同級生たちは、ウインターカップまで戦い続け、私にとっては雲の上の舞台で華々しい引退を迎えていました。「満足のいく環境で自分もバスケットをやり遂げたい」。今振り返ると、私が大学バスケを志したのはこんな想いからでした。そこで大学選びの際にたまたま見た慶應バスケ部のHPから連絡し、OBの窪田さん(1990卒)にわざわざ京都まで足を運んでいただき、「推薦がなくても泥臭さで強豪に競り勝つ」スタイルに感銘を受けて入学・入部を決意しました。

〈慶應バスケ部での1年目〉

 入部1年目は慣れない環境に適応するのに精一杯でした。5時半起床の朝練、初めての寮生活、そして何より全国区で活躍してきた人たちとのハイレベルな練習と、今までいかに自分が小さな井の中にいたかを痛感しました。また「他にやりたいことがある」と言って部を去る同期がいる一方で、「先輩たちを早く超えたい」という想いで何にでも挑戦する同期もいて、大学バスケとは本物の競争の世界なのだとも実感しました。私にとっては、こうしたバスケット漬けの日々は喉から手が出るほど欲していたので、この恵まれた厳しい環境の中で自分にできる限り懸命にもがいてやろうという、至極単純な想いで練習に励んでいました。

〈2年目〉

 2年生になり、慶應バスケ部に新たに入ってきたのは、全国有数の強豪校の出身であったり恵まれた体格を持った後輩たちでした。彼らは一瞬で私に代わる存在となり、私がコートに立つ機会と言えば、試合終盤ですでに勝敗の決まっている短い時間帯でした。ほとんどの時間ベンチに座り、冷え固まった体で何かしらの結果を出す必要がある難しい立場で、「このまま部にいても選手として価値を発揮できないかもしれない」と焦りが募り、気づけば京都にいる親に電話で泣きついていました。そんな情けない私に父がくれた言葉は、「腐って辞めるのは誰にでもできるけれど、腐らずやり遂げるのは誰にでもできることじゃない、そっちの方がお前らしいじゃないか」というものでした。バスケ漬けの環境にも慣れて入部当初の志を忘れていたと気づき、再び心を動かされた私は引き続き自分がチームに何ができるかを探し、もがき続けようと決めました。昨今ではこの父の言葉も根性論だと言われますが、当時どん底の気分だった私にとってはどんな言葉よりも心の支えになり、前を向くことができたと感謝しています。

〈3年目〉

 3年目になると上級生の仲間入りを果たし、チームを引っ張らなければならない立場になりました。しかし当時の私はそんな理想像とは大きく異なり、続けてきたはずの自分の努力とコート上の短時間でのパフォーマンスが合致せず、新たに入ってきた新1年生(現3年生)にも後れを取っていました。何がダメなのか?何が足りないのか?こうした悩みを常に抱えながら、各々のやり方で活躍しチームを引っ張っていく同期と過ごすのはとても辛かったです。気づけば同期やチームからも距離を置き、ひたすら病むように「自分は何の為にチームにいるのか」と考え続けていました。

〈4年目〉

 そうしている間に4年目となり、ついに慶應バスケ部で過ごす最後の代を迎えました。

 チームの方針や体制を自分たちで構築していく話し合いは、一時「自分もチームを引っ張る側にならなければ」との責任感を生みました。そのうえで私は主将でも副将でも主務でも学生コーチでもなく、名前のない立場からチームを支える存在になる、と同期とも話し合って決めました。個人的にはどんな役割だろうとも自分にできることは責任を持ってやり遂げたい一心でした。そのため4月のタイミングで、控えのメンバーで構成される「強化チーム」の所属として下級生のサポートをしつつ自身も試合に出るためにこれまで以上に努力してほしい、とヘッドコーチから告げられた時もそれほど落ち込みませんでした。新たに加わった大勢の1年生を含め部員総数40名を超える弊部をプレーや指導で引っ張るのは自分以外の同期が担ってくれる一方で、試合に絡まない部分から支えてあげることが自分にできるチームへの唯一の貢献だと思ったからです。正直に言うと、こんな頼りない私に対しても後輩たちはひたむきに接してくれ、常に一生懸命な彼らと一緒に練習している間は、ずっと抱えていた「自分は何の為にチームにいるのか」という悩みを忘れられたので寧ろ気が楽でした。そして私はありがたくも夏を前にして「選抜チーム」に上がり、早慶戦にも4年間で初となる十数秒の出場機会を得ました。本音を言うと、その短い時間では初めての早慶戦の舞台を噛み締めることはできず、試合後はこんな自分でも無理に出場させてくれたチームに対する不甲斐なさや情けなさで一杯でした。

 早慶戦後はすぐに秋シーズンに入りリーグ戦が始まりました。同期達は重要なときに必ずチームに必要な活躍をしていてたくましく感じる一方、結果だけ見れば私は引退する最後までコート上で目覚ましい活躍がなく、プレーヤーとしての成果を上げられませんでした。しかしそれでも自分の中に強く残っていることがあります。それは最後の学習院大学との試合の終盤にコートに呼ばれると「シュートを打て」と言われながらも主将の林泰我にアシストパスを出したシーンです。試合後の選手控室でその話になった時に、同期たちが笑いながら「最後まで康月らしい」と言ってくれました。誰が聞いても些細な言葉ですが、私にとってはそれだけで「やり遂げてよかった」と心から思える瞬間でした。

〈最後に〉

 以上が私のこれまでのバスケット生活で経験し、感じたことの全てです。慶應バスケ部での4年間を振り返ってみると、自身の未熟さや考えの甘さゆえにやり直したいことが山のようにあります。そして最後まで「自分は何の為にチームにいて、チームに何ができるか」を具体的に見つけられたとも思っていません。選手として大した成果も収められずに引退したことを悔しく思っていますし、「『自分らしく』戦い抜いた」と、これまでを美化したくてもしきれないほど後悔があります。さらに目標としていた早慶戦優勝・2部リーグ昇格をどちらも達成できなかったのも大きな心残りです。これを後輩たちに託すことを申し訳なく思うとともに、これまで応援してくださった数多くの方に対しても心苦しい限りです。

 そんな自責の念で溢れかえるとともに、OBをはじめとし、コーチ陣の方々や先輩方、後輩たちには本当に感謝しています。こんな私でも最後まで腐らずやり遂げることができたのは皆さまのおかげです。これからは私も1人のOBとして全力で慶應バスケ部のさらなる活躍に貢献してまいりますので引き続きよろしくお願いします。

 そして両親へ。どんな時も変わらずずっと支えてくれてありがとう。あの時はじめたバスケットで自分はここまで来ることができました。まだまだ未熟でこれからもたくさん心配をかけるかもしれないけど、どうか温かく見守っていてください。いつか必ず立派な人間になって恩返しします。

 最後に4年間一緒に頑張ってきた同期へ。長い間本当にお疲れさま、そしてありがとう。色々迷惑をかけたこともあったけど、みんなとバスケットができて幸せでした。卒業しても必ずまた集まろう。