ラストブログ 髙島孝太郎 

バスケが繋いだ縁とともに

はじめに

 誠に僭越ながら自己紹介をさせていただきます。本年度慶應義塾大学総合政策学部4年、並びに慶應義塾体育会バスケットボール部で副将を務めておりました、髙島孝太郎と申します。

 引退してからしばらく経ちますが、月曜日以外に記念館に行かない時間があることにまだ違和感を感じております。ここでは、私の決して華々しいとはいえないバスケ人生について語らせてください。拙い文章ですが、どうぞ最後までお付き合いください。

バスケとの出会い

 私がバスケットボールを始めたのは中学1年生でした。希望していた水泳部がなく、親友に「背が大きいからバスケやろうよ」と言われて放課後に体育館に行ったことがきっかけでした。また、バスケ部は私の入学と同じタイミングで創設され1期生として入部しました。初心者なので、ボールを持つこともなく、街灯も無いゴルフ場の周りを永遠に走らされていました。キツイことばかりでしたが、初めて仲間と何かを成し遂げるという経験に当時は心が揺れ動かされていました。
そして、入部してまもなく「背が大きい」という理由で市の選抜選手に選ばれました。自分より上手な選手がたくさんいる中で選出された自分が情けなく、練習前は緊張でお腹が痛くなり、帰り道は親に弱音を吐いていたことをよく覚えています。苦しみながらも上達していき、3年目にして大阪府選抜まで運良く選んでもらいました。

(同期との菊地とも中学2年生の時、一度対戦したことがありました。笑)

大阪1位を目指して

 高校ではさらに高いレベルで学業と部活を両立したいという想いから、当時大阪府1位であった近大附属高校に入学しました。この3年間は自分の人生観を大きく変えた期間でした。技術面では1on1ではなくガードと同等の視野を持ってパッシングオフェンスができること。そしてDFではチームで決められた規律を高いレベルで遂行することが求められました。チームには日本代表の選手や国体選手がいる中で自分が試合に出るビジョンが全く見えませんでした。

 入部初期は不器用ながらも自分にできることは全てやろうと、毎日体育館に最後まで残り、ウエイトにも励みました。結果試合に出場はできませんでしたが、部員80名の中からベンチメンバーに選んでもらえました。2年目は必ず試合に絡む選手になりたいと意気込んでいた矢先、大きな壁にぶつかりました。想像以上に身体にストレスがかかり、体調不良の日が続いていました。

 ある日乗り換えの駅で電車から降りようとしても身体が動かないほど限界に達していました。その後徐々に学業成績も下降気味になり、休部という選択肢を取りました。結局学業も手付かずの状態が続き、自分の無力さに自暴自棄になっていました。そんな状況下で、空っぽの自分を救ってくれたのが同期でした。部活以外の時間にご飯に誘い励ましてくれたりなど、私がチームに戻りやすい環境を作ってくれました。学業と部活共に結果が出ない自分に呆れ、自分ばかりにベクトルが向いた感情でしたが、この時初めて「自分を支えてくれる人達のために頑張りたい」という想いが芽生えチームへの復帰を決めました。コロナでインターハイが中止になるも、ウインターカップ出場を目指してチームメイトと切磋琢磨した経験は後の大学バスケに大きく活きました。

 さらに当時監督からは、「バスケットボール以外に自分の刃を磨きなさい」と口酸っぱく言われていたのが印象的でした。チームスローガンも同じく「I love basketball but, basketball is my chapter in my life.」(バスケは人生の一部分でしかない)というものでした。高校でいくら活躍したとしてもプロになって生計を立てていけるのは一握りしかいない。だからこそ自分からバスケを抜き取った時に何が残るのか常に考えさせられました。留学や起業について考える同期が多い中、当時の私には将来明確にやりたいことなどありませんでした。

 そんな時OBの蛇谷さんと原さんに出会いました。慶應義塾でバスケができる醍醐味を熱弁していただき、心が突き動かされました。そこで高校3年生の未熟な私が出した結論は「将来の選択肢の幅が広がる道に進むこと」つまり慶應義塾大学に進むことでした。1度はAO入試に不合格となりますが、引退後猛勉強を重ね、運良く現役で合格することができました。

大学バスケという環境

 入部した直後は毎日が刺激的でした。レベルの高い選手が多く、かつ規律あるチームスタイルに最初は衝撃を受けました。格上相手でもハードなDFとリバウンドでなんとか喰らい付き、妥協を許さない雰囲気は高校とは180度違った景色でした。また自主練につきっきりで指導してくださり、大人も顔負けの的確なアドバイスをくれた学生スタッフの存在も新鮮でした。
スタッフの皆の支えもあり、運良く1年生から主力として試合に使ってもらいました。そんな中迎えた初めての早慶戦。内部生でない私は、早慶戦の重要性がイマイチ分かっていませんでした。しかし試合が始まるとハーフまではほぼ互角で戦うことができる過程を肌で感じ、3部の慶應がやり方次第では1部に対抗できるのかと驚きを隠せずにいました。

挫折

 1年生のリーグ戦で強く心に残っている出来事があります。
玉川との試合、残り5秒1点差で勝っている場面で、僕のターンオーバーから逆転され落とした試合がありました。試合後、昇降格を懸けた場面で犯したミスの重さにコートで崩れ落ちました。試合後上級生が自分の元に駆けつけてくれ、「もう1度頑張ろう」と声をかけてくださりました。どこかお調子者になっていた頃から一変、「慶應を勝たせられる選手になりたい」と決心しました。スタッフが惜しみなく準備してくれているからこそ、高校時代の挫折以上にチームために頑張りたいと思い、練習に取り組むようになりました。

新体制

 3年生では、2回目の社会人コーチの変更があり、現在の湯浅HCと出会いました。
お仕事がありながらも毎日指導してくださった献身的な姿に現在も感謝してもしきれません。この年は格上と試合をする機会が多く、春のトーナメントでは青山学院と最後まで勝敗が分からない試合をするほどチームの完成度が高かったです。そして迎えた3回目の早慶戦。前年度までボロボロだった慶應が3ピリまで早稲田と競る激戦でした。満員の代々木で、シュートを一本決めれば爆発音のような歓声が響き渡る中プレーできたことは私のバスケ人生の中で最高の瞬間のひとつでした。同時に1年生の時に感じていた先輩方の早慶戦に懸ける想いについて初めて分かったような気がしました。

 3年目のリーグ戦も惜しくも2部昇格とはなりませんでしたが、この1年私の原動力となっていたのは、当時4年生の山口さんでした。彼は、同じセンターポジションで私の交代で数分出場するプレイヤーでした。しかし、ほんの限られた数分のために、僕を1分でも多く休ませるために、練習を誰よりもハッスルしていました。その姿に自分も触発され、「山口さんがこんなに頑張っているのに自分が休んでいていいのか」とキツくなった時はそう考えながらあと1歩頑張るようにしていました。各々が与えられた役割の中で必死に奮闘し続ける慶應バスケ部の良さがここに詰まっていました。

(大観衆の中での早慶戦 代々木体育館にて)

責任と重圧

 迎えた最終学年。同期からは副将に推薦してもらい、「ALL OUT、All up to you」というスローガンを掲げ、新たなシーズンに挑みました。しかしシーズンイン直後に足首の靭帯損傷で2ヶ月程プレーができない日々が続きました。主将の林や学生コーチの橋本がコート内外でリーダーシップを発揮している姿を見て、コート上で活躍すること以外に取り柄がない副将の自分にやるせなさを感じていました。2部に昇格するためにもプレー以外の側面でチームに貢献できることを探さなければという危機感が強くなりました。特に主将の林からは後輩とのコミュニケーションの大切さを学び、コート内外で積極的にチームメイトと対話する彼に感化され、成長することができました。

 この一年間は四年間の中でも特に長く感じた年でした。「最上級生としてチームを勝たせなければいけない」「4年連続3部残留は絶対にダメだ」という責任と重圧が常に隣り合わせでした。春の早慶戦では善戦するも、リーグ戦では序盤2勝4敗でスタートし、一年間のチームづくりが否定されたような結果が続きました。2部昇格という目標を立てておきながら、このまま1勝もできないままチームが崩壊してしまうのではないかと思うほど、心が押しつぶされそうでした。しかし、関東学院大学戦での勝利で少しだけ報われたような気がしました。慶應のDFがハマり、得点をバランス良く重ねる今年のベストゲームでした。勝利の安堵に流れた涙と後輩と抱き合い喜んでいたあの瞬間は忘れることはないでしょう。

 「慶應を勝利に導く選手になる」という目標を掲げ入部しましたが、その道のりは想像を絶するものばかりで、9割は苦しい時間だったと思います。ですが、苦しみも喜びもたくさん分かち合うことができたのは慶應バスケ部であったからだと確信しています。特に、勝利には届かなかったものの満員の代々木で仲間とプレーした早慶戦は私にとって一生の財産です。心から慶應でバスケができて幸せだったと思います。

 残念ながら2部昇格とはなりませんでしたが、今年は多くの新戦力の台頭があり、リーグ戦では違うヒーローが毎回誕生しました。慶應バスケ部の新たな章はここから始まります。成長著しい後輩達の活躍を来年も皆様ご期待ください!

お世話になった方々へ

 最後にこの場をお借りしてこれまでお世話になった方々に感謝を伝えさせていただきたいです。

両親へ

 10年間バスケを続けさせてくれてありがとう!2人には弱音しか吐いてこなかったけど、苦しい時も楽しい時もいつも寄り添ってくれて本当にありがとう!これからは名前の由来である親孝行をしていきます。笑

同期へ

 4年間一緒にバスケをしてくれてありがとう。ほんまに苦しいことばっかりやったね。コート外でもずっと一緒にいて家族のような存在で、みんながいたから最高の大学生活を送れました!

後輩へ

 2部昇格という景色を見せてあげられなくて本当に申し訳ない。特に3年生にはいつも助けてもらってばかりで、本当に頼りになる後輩でした。大所帯になったチームをまとめあげることを期待しています!!

社会人スタッフの皆様

 特に、湯浅HC。2年間ほぼ毎日体育館に来てご指導くださり本当にありがとうございました。最初に湯浅さんと出会った合宿でシュートが汚すぎて矯正させられたことを今でも鮮明に覚えています。2年間の鍛錬の結果、リーグ戦で3Pを打てる選手に成長できました。湯浅さんがそれを見て喜んでいる姿が、僕は本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

OBの皆様

 本当に多くのOBの皆様にお世話になりました。今年に入ってからは多くの若手OBの皆様が練習に駆けつけてくださり、いつもボコボコにされていました。特に木村さんからは多くの学びを得て、上級生になりプレースタイルが変わるほどまで成長することができました。皆様のようなかっこいい社会人になれるように頑張ります。

最後に

 引退後、なぜここまでバスケを継続できたのかずっと考えていました。正直に話すと高校まで私はバスケットボールが嫌いで仕方なかったです。なぜなら、いつもミスを恐れてばかりでその場しのぎの毎日を送り、自分が出られなくても仲間が頑張ってくれるはず、とどこか他人任せだったからです。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかったです。しかし、大学に入って「自分の為に選手というポジションを捨ててでも頑張ってくれている人がいる。だからこそ慶應を勝利に導く選手になるんだ」という強い想いが自分の原動力になり、バスケが大好きになりました。きっと「もっと上に行きたい」「誰かのために頑張りたい」という想いがここまでバスケを熱中できた理由であり、私の価値観を形成してくれました。私の学生生活を彩ってくれたバスケ、そして支えて頂いた皆さんに感謝してもしきれません。これからはOBとして頑張る後輩を全力でサポートし、皆様へ恩返しをしていけたらと思います。
最後になりますが、これからも変わらぬ応援とご支援をよろしくお願いいたします。ここまで読んでくださり、心より感謝申し上げます。