ラストブログ:僕のみにくいシンデレラストーリー

はじめに

 誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。慶應義塾大学経済学部経済学科並びに体育会バスケットボール部4年の安田彪吾と申します。先輩方の引退ブログから勇気をもらった身として、誰かの活力になればと、一部員である僕のバスケ史を書かせていただきます。

 僕が慶應バスケ部を選んだ理由は実にシンプルで、条件に合致したからです。元々はカナダ留学の経験を活かして海外大学へ進むつもりでしたが、コロナ禍で断念せざるを得ませんでした。そこで急遽、日本での進路を考えた時、求めた条件は3つ。「関東の高いレベルでプレーしたい」「良い大学に入りたい」「実績のない自分でも挑戦できるバスケ部がある」です。この3つの条件に唯一合致したのが、慶應義塾大学でした。

 しかし、入学までの道のりは平坦ではありませんでした。日本の大学へ進路を切り替えたものの、「極力勉強はしたくない」という甘い考えからAO入試に挑み、完敗。一時は「自分を落とした大学になんて行くか」と意地を張ったこともありました。しかし、冷静になれば自分には慶應しかない。そこでバスケがしたい。そう認め、一般受験でのリベンジを決意しました。

 結果、無事に合格できたのは、間違いなく「進学校」に在籍していたおかげです。母校では「慶應に行く」と口にしても、反対されたり「無理だよ」と茶化されたりすることはありませんでした。周囲は、当たり前のこととして背中を押してくれました。

この時、親が常々口にしていた「どうせなら、良い学校に行け」という言葉の意味が理解できました。高い目標を掲げた時、それを応援してくれる環境があるか。それが自分の可能性を広げる鍵になります。 慶應大学も、このように皆さんの選択肢を広げてくれる環境が整っています。もし進路に迷っているなら、ぜひ目指してほしい場所です。

大好きなバスケ

 今の僕はバスケが大好きですが、その原点は少し特殊です。実は、幼少期は野球に夢中でした。しかし、スペイン人の母がいる我が家では「週末は家族の時間」が絶対。土日に活動する日本のスポーツクラブの慣習とは合わず、チームには入りませんでした。

 それだけでなく、中学校に部活という制度そのものがありませんでした。放課後の1時間、バスケやフットサル、ラグビーをして遊ぶ日々。その中でバスケが一番楽しくなり、3年生の最後には「どうしても試合がしたい」という想いが爆発しました。校長先生に直訴して許可をもらい、公式戦に出場。まず、コーチ探しからはじまり、部員の勧誘、ユニフォームもデザインしました。結果は初戦敗退でしたが、そこで共に汗を流した仲間は今もこれからも大切な友達です。

 高校は、自由を求めて県内屈指の進学校である岐阜高校へ。周りは当然「受験第一」という雰囲気でしたが、僕はクラスの自己紹介で高らかに宣言しました。「とりあえずこの1年間は勉強しません。バスケをしに来ました!」それくらい、当時の僕は狂ったようにバスケにのめり込んでいました。

 念願のバスケ部に入部、しかも運良く顧問が元Bリーガーだったこともあり、熱量は加速する一方でした。しかし、小さい頃からプレーしている選手たちとの「経験値の差」を痛感したこと、そして語学への意欲から、2年生になる前にバスケと英語を学ぶためにカナダへの留学を決断しました。およそ1年現地で過ごしましたが、バスケットボールという「共通言語」があったおかげで、誰よりも深くコミュニケーションが取れ、英語力も飛躍的に向上しました。

 ところが、帰国後はコロナ禍の真っただ中。部活動も停止状態で、チームメイトとプレーできない日々が続きました。それでもバスケがしたくて、使える公園やリングを探しては練習する毎日でした。やっと出場できた大会でバスケ部は県ベスト8を達成。ただ、僕自身は途中でクラブチームに加入するために、部のキャプテンを降りてしまうなど、多くの迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。

 全体としてはバスケに打ち込めた高校時代に見えるかもしれませんが、実はその裏で怪我に悩まされていました。留学直前に左膝の半月板損傷(全治8ヶ月)、クラブチームに参加する直前には右膝前十字靭帯断裂(全治1年)も経験しました。中学・高校と思うようにバスケができなかった、周りにも迷惑をかけてしまった。そのやりきれない思いこそが、大学でもバスケを続ける活力であり、大好きでいられた最大の理由なのだと思います。

体育会バスケ部の世界

 受験を乗り越え、ようやく大学バスケの世界へ。体育館に入った初日、僕は先輩方から冷ややかな目で凝視されました。理由は、長髪にヘッドバンド、そして練習着のまま体育館に入ったからです。身だしなみのルールがあるのを知らなかったことを反省しました。ただ、後日僕が試合で活躍した際に、ある先輩が「人を見た目で判断してはいけないと学んだ」と話していたと聞き、妙に嬉しかったのを覚えています。

 入部した大学での練習は90分と短く、その分強度は高い。受験明けの身体は悲鳴を上げ、入部2ヶ月で右膝を負傷。1年目のシーズンは「休部」することになりました。辞めないために選んだ決断でしたが、夏休みには人生で3度目となる膝の手術を経験し、苦しい時期が続きました。

 復帰したのは1年生の11月。4年生が引退し、怪我人も続出したため、選手は各学年4、5人しかいない状態でした。たった4人で練習した日もあります。当時の3年生は学生スタッフが多く、チームに全てを捧げる人たちでした。一番下手だった僕に対し、単純なレイアップのドリルですら、列に戻るまでのわずかな間に4、5人のスタッフから次々と細かい指摘が飛んでくる。ありがたいと思うと同時に、一挙手一投足を監視されているような感覚もありました。年末のオフが来た時は、「やっとバスケから離れられる」と、それくらいのキツさを覚えました。

 そして六大学リーグで初の公式戦を経験し、徐々に試合に絡み始めた矢先のこと。明星大学との練習試合で、1Q途中で出場した直後、相手選手のスクリーン(肘)と激突し、鼻の付け根を骨折。直後はアドレナリンで「まだやれます!」と叫んだものの、その瞬間に大量の鼻血が噴き出し、ゲームオーバー。手術は成功しましたが、鼻呼吸できない2週間は脳に酸素が回らず、親とも口をききたくないほどでした。

 それでもバスケを諦めず、またしても復帰。早慶戦を前に「新人戦」というチャンスが巡ってきました。しかし部員不足もあり、怪我のリスクを懸念した監督からは辞退を勧められました。それでも、納得いかない部員たちの後押しもあり、タイムシェア付きでの出場が決定。ここで僕は2試合でスリーポイント9本を決める爆発を見せることができました。

 スリーポイントは誰よりも打っていたので、確固たる自信がありました。その背景には、ずっとリバウンド練習に付き合ってくれるスタッフがいました。19時からの練習の日も、授業が終わって16時頃に体育館に行くと、既にスタッフがいて、僕は練習が始まるまでシュート練習を行っていました。

 なんでもない自分の練習を、無償で手伝ってくれる人たちがいる。「本当に、プロみたいな環境じゃないか」と思っていました。大学以前にそういった経験がなかったこともあり、大きく感謝すると同時に「申し訳なさ」も感じました。

 しかし、自分がたくさん練習すること、そして試合で活躍すること。それが、スタッフの努力、心遣いに対する僕なりの誠意と感謝だと思って日々励みました。この気持ちは引退するまで変わりませんでした。

 2年生になり、新人戦での活躍もあって、僕は早慶戦で30秒だけコートに立ちました。あの3000人の熱気、先輩たちの鬼気迫る想いを肌で感じ、「ここで主力として戦いたい」と強く誓った瞬間でした。しかし、現実は甘くありません。その後のリーグ戦前には再び出場機会ゼロ(DNP)へ。夏合宿での出番は、高校生相手の試合やレクリエーションゲームだけ。それでも腐らず、夜な夜な同期のスタッフ(有村や江畑)とシューティングを続けました。

 そしてリーグ戦が始まると、ガベージタイム(勝敗が決した時間帯)の結果で評価を覆し、15分程度のプレータイムを獲得。接戦の國學院戦では終盤に3本のスリーを決めて勝利に貢献できました(ここで例の先輩が「見た目で判断しちゃダメだ」と言ってくれたそうです(笑)。

しかし、シーズンの最後はまたしてもDNP。試合中、「自分を出さないから勝てないんだ」なんてベンチで尖っていたのを覚えています。生意気な話ですが、けれど選手にはこれくらいの強気なメンタルも必要だと思っています。「根拠のない自信」と「反骨心」が、当時の僕を支えていました。

やってきた暗黒期

 上級生になり、「絶対活躍する」と意気込んでいた3年生の冬。しかし、ここからが本当の「暗黒期」でした。まずはスペインへの帰省でチームを離脱。帰国後には、古傷となっていた膝の手術。さらに、肩の腱板を損傷。立て続けの試練に、「次、手術が必要になったら引退する」。親とそう決めていたほどの崖っぷちでした。不幸中の幸いで、肩に関してはなんとか手術を回避できました。

 しかし、これだけの期間離脱している間に、超有望な1年生たちが大量に入部。復帰した頃には、僕はBチームへ転落していました。「自分はAチームにいるべきだ」という意地でなんとかAチームには這い上がりましたが、試合には出られない日々(DNP)。「活躍する」と強くイメージして臨んだシーズンだっただけに、心が折れかけました。

 毎日体育館にこもって全力で向き合っているからこそ苦しい。「メンタルヘルス」の重要性を身をもって理解しました。多大なサポートをしてくれる親に「試合を見に来て」と言えない申し訳なさ。かさんでいく両膝の治療費やトレーニング代。募るのは、自分への嫌悪感ばかりでした。けれども、この経験が「失敗=努力不足」という僕の固定観念を壊してくれました。

 これまでの僕は、うまくいっていない人は努力が足りないだけと、自分のことも含めて本気でそう思っていました。しかし、実際はそうじゃない。頑張っていても、タイミング、運、才能、環境、いろんな要因があって成功しないこともある。そう気づき、人として一回り大きくなれた気がします。

 この期間、僕は、試合期で練習量が減るAチームの練習だけでなく、Bチームの練習にも参加し、DNPの試合後はすぐに体育館でワークアウト。「どうせ頑張ってるんだから、全部やろう」と、そんなマインドで過ごしていました。

 結果は出ず、3年生のシーズンは終了しましたが、やりきりました。ただ、唯一後悔しているのはベンチでの振る舞いです。試合に出られない悔しさで、上級生としてチームを鼓舞する姿勢が足りていませんでした。翌年、自分のラストイヤーで、同じ境遇の鈴木(3年)や伊藤、三枝(2年)が、ベンチでチームを鼓舞する役を立派に果たしているのを見た時、救われた気持ちになりました。僕のなりたかった理想として、この先もずっと記憶していく仲間の姿です。

ラストシーズン(前半)の苦難

 4年生に進級し、いよいよラストシーズンが始動。まずはキャプテン決めから始まりました。僕はてっきり、島本(正智深谷)か廣政(福大大濠)がやるものだと思っていましたし、そうあるべきだと考えていました。彼らは入部当初からとてつもないキャプテンシーを発揮していました。まだ練習にすら参加していなかった時期に、当時の最上級生にカツを入れるためのミーティングを開いたほどです。勝ちたいと願う彼らが、先輩たちに「やる気あるんですか」と詰め寄った時、僕は傍で「これが強豪校出身者の姿勢なんだ……」と純粋に感動していました。

 しかし、2人は主将に立候補しませんでした。理由は「自分たちは既に影響力がある。役職を他人に任せることで、組織全体の影響力を高めたい」というものでした。部全体を励まし、盛り上げる役はもっとたくさんいるべきだ、という話です。

 そこで副将には椎橋が手を挙げましたが、主将が決まりません。一応僕も候補の1人でした。あの時立候補していればなれたのだと思います。けれども僕としては、「コート上で結果を残していない人間がキャプテンをやる」ことに納得できていませんでした。廣政の理屈は理解できていたので、これは僕の弱さです。

 僕には「自分が完璧でなければ、他人に厳しく言えない」「序列を気にしてしまう」という悪い癖があります。それは、人生努力してもうまくいかないことはある、と知った後でもなかなか変えられない考え方でした。

 対照的に、廣政や島本には、自分が一番下手だろうがミスをしようが、間違っていることには「違う」と言える強さがありました。最終的には、島本が僕を説得しようと名スピーチを行ったところ、なぜかそれに廣政が感化され、彼が主将をやることになりました。新しいキャプテンの下、僕たちのラストシーズンのスタートです。

 また、このシーズンは、スタッフ陣に元Bリーガーの二宮康平さんがACとして加わってくださいました。二宮さんの指導は強烈でした。シュートやハンドリングといった技術論ではなく、もっと深いレベルでの指導でした。

例えば、「なぜタフショットが悪いのか」という話があります。単に確率の問題ではなく、悪いタイミングでのシュートは、相手に走られて簡単な失点(2点)につながったり、リバウンドがとれなくなる。これまでは「戻りが遅いから失点した」「小さいからリバウンドがとれない」と片づけてしまっていた話を、根本から改善することになりました。少しずつ成果は見られましたが、指導で示された高い理想を具体的にコート上で表現する力が当時の私たちには不足しており、春シーズンは非常に厳しい戦いを強いられました。

 一方で、僕自身の立ち位置も崖っぷちでした。シーズン前、同期の学生コーチである有村から、廣政を除いたメンバーに告げられたのは「君たちは今のところ構想外だから」という非情な通告。けれども試合に出ることは誰しも悲願です。

 僕は活躍のイメージが全く湧かない状態で過ごしていましたが、そんななか別の競技に打ち込んでいる、真面目な僕とは正反対な弟から、こんなアドバイスをもらいました。「試合に出たいなら、監督にゴマをするなり、できるアピールを全部やんないと。」弟は、監督が現れる曜日や時間を把握して朝練に励んでいたそうです(笑)。なかなかちゃっかりした話ですが、試合に出なきゃ何も始まらないと理解していた4年目です。一理あるなと思った僕は、それもやってみることにしました。

 まずは、常に声を出し、誰よりも走り、システムを理解する。これに加えて、監督の「好み」を徹底的に把握しました。バックカットを狙う動き、オーバーヘルプはしない、パックラインの位置取りは厳密に。たとえ周りを助けたとしても、自分のマークマンにやられたらマイナス評価になりますし、ターンオーバーにはとにかくシビアです。出場時間の短い選手には、ミスが許されません。長時間出ている主力選手なら許される一つのミスも、僕にとっては即交代を意味します。

 こういった、ある意味では簡単だけど多くの人がやらない(特に試合に出ているメンバーは手が回らない)ことを徹底したことで、出場時間は5分、10分、15分と伸び、六大学リーグでは久々に両親の前でプレーする姿を見せることができました。正直、運も大きかったと思います。試合に出られなかった選手と僕の間に、大きな実力差があったわけではありません。たまたまシュートが入った、リバウンドがこぼれてきた。何かが少し違えば、試合には出られていなかったはずです。引退する最後の試合まで、「いつDNP(出場なし)になるか分からない」という恐怖と常に隣り合わせでした。

 そうして、いよいよ早慶戦の日がやってきます。最後の早慶戦で、確実にプレータイムをもらえる、家族や友人を招待できる。これが本当に嬉しかったです。迎えた当日、一番記憶に残っているのが、試合直前にみんなで見ていたモチベーションアップビデオを、敢えて見なかったこと。シーズンを通して意識していた「普段の練習と全く同じ気持ちでプレーする」ためでした。

 この意識は、コートに立ってからも徹底し、シュートを決めても決して一喜一憂しない。このマインドは、引退するまで大事にしていました。(審判への抗議は別です。)今思えばもっと感情を爆発させてもよかったかなと少し寂しくもありますが、あの時試合に出続けるためには必要なことだったので、後悔はありません。早慶戦では、チームは敗れたものの、3000人の前でスリーを5本決め、インタビューの機会をいただきました。今ではプレーよりその時の姿ばかり言及されますが、支えてくれた人たちに感謝を伝えられて本当に良かったです。

ラストシーズン(後半)を越えて

 大阪、韓国への遠征を経て、いよいよリーグ戦へ向かうシーズン後半。僕はその間に、中国出身の後輩・柳澤に招待され、彼を含む後輩4人と中国へ旅行に行きました。自分にとってその旅は、慶應バスケ部の「変化」を象徴する出来事でした。

 僕が入部した頃、学年間の壁は厚く高いものでしたが、4年間を経てその壁は確実に低くなりました。昨年の主将・林さんの代が築いてくれた「下級生がのびのびやれる環境」のおかげで、今は先輩後輩の垣根を越え、チームメイトとして関わり合えています。

 もちろん、体育会組織としてそれが正解とは限りません。下級生との距離が近すぎれば、先輩としての威厳は保てず、いわゆる「ナメられる」状況を招きます。経験豊富な最上級生の言うことを下級生が黙って聞く、つまり権威に従う形の方が、マネジメントする側としては楽ですし、リスクも少ないです。

 ただ、僕はそのやり方にあまり納得できていません。よく「コートに入れば学年は関係ない」と言われます。でも、コート外の関係性がプレーに影響しないわけがないと思っています。普段の生活で「先輩が怖いから」と委縮し、顔色を窺っている人間が、試合の土壇場で先輩に対して「パスをよこせ!」と本気で要求したり、厳しい指摘をし合ったりできるはずがないからです。

 それに下級生の立場から考えても、「チームのことは4年生が考えるもの」と一歩引いて過ごすのは、あまりにも時間が勿体ない話です。1年生から、チームのことを考えて過ごした方が、部員として人間として成長できるのでは? と僕は思っています。

 ただ、今のチームの状態が「正解」かと言われれば、そうではないでしょう。「いいチーム」と「勝てるチーム」のバランスは難しく、今のやり方が甘さにつながることもある。多くの部員がその難しさを理解し、感じているはずです。実際、結果として「勝てるチーム」にできなかったのは、自分も含めた、僕ら4年生の責任であり、甘さだと思います。それでも、全員が「自分たちのチームだ」という当事者意識を持てた時、このチームは爆発的な強さを発揮すると信じています。

 このように、いつか本当にひとつのチームになるためのきっかけ作りとして、僕は上下関係を超えた絆づくりを意識していました(そういえば、お花見もありました)。

 話は戻って、最後のリーグ戦。最終節まで入れ替え戦出場を争いましたが、國學院大学に敗れ、その道は閉ざされました。個人としても思ったような活躍はできませんでしたが、最後までプレータイムをもらい、戦い抜くことができました。不満はあります。それでもこの國學院戦は、大学生活で最も心が震えた試合でした。「何かを懸けて戦う」という感覚を、大学に入って初めて味わった気がします。

 あの試合でコートに立っていたメンバーは、こういう試合をもう一度するために頑張ってほしい。そして、往復4時間かけて会場に来て、応援しかできない悔しさを味わったメンバー。選手である以上、それがどれほど辛いことか、僕が誰よりも知っています。だからこそ、スタンドで声を嗄らして応援してくれた部員に心から感謝しています。昨シーズン悔しい思いをした人こそ、次は胸を張って早慶戦やリーグ戦を迎えるため、誰よりも練習してほしいです。

 チームとして結果が出なかった理由、それは部員全員が心のどこかで分かっていることと思います。みんな一生懸命頑張りました。でも、「妥協せず、勝つためにできることを全部やったか?」と問われて、自信を持って頷ける人はどれほどいるでしょうか。バスケ推薦で集まったわけではない僕たちが勝つには、一生懸命頑張るだけでは足りない。それが、4年間を通して知った現実です。僕は引退することになりましたが、ここまでの軌跡が少しでも誰かの役に立ってほしいと願っています。

 最後に、どうしても触れておきたいことがあります。ラストシーズン、2人のスタッフがチームを離れました。彼らはこの4年間、誰よりも己を犠牲にし、チームのために全てを捧げてくれた2人でした。慶應バスケ部は今、変革期にあります。少数精鋭の厳格な体育会から、よりオープンで大所帯の組織へ。彼らはその過渡期において、伝統ある「体育会としての規律」や「勝つための厳しさ」を誰よりも守ろうとしてくれました。その熱意が強すぎるが故の結末だったことは、部の人間なら誰もが分かっていると思います。仲間として、彼らの期待に応えられず、支えきれなかったこと、大変申し訳なく、このことはずっと忘れずに心に留めておきます。

おわりに

 ここまでの4年間を振りかえってきて今感じているのは、後輩たちに対する強烈な「羨望」です。来年もこのコートで戦える君たちが、死ぬほど羨ましい。僕は4年目にしてようやく、チーム内での競争ではなく、相手チームと戦う勝負の楽しさを経験しました。次のシーズン、またその次のシーズンに向けて、課題に向き合い、成長して勝負ができる君たちに嫉妬しています。そして、それを当たり前に経験してきた僕の同期には怒りも感じています(笑)。それもこれも、全力で取り組んだからこそ浮かんでくる感情だと思います。

 こうなったのも、4年間で僕が変わったからです。

 冒頭で述べた通り、僕が慶應バスケ部を選んだのは、「合理的で、損のない選択」だと思ったからです。しかし、いざ蓋を開けてみれば、この4年間は「非合理」の連続でした。どれだけ時間を費やして一生懸命頑張っても、試合には勝てないし、出られないかもしれない。怪我ひとつで、積み上げたものが一瞬にしてゼロになるかもしれない。4年間で、何も得られない可能性だってありました。

 だから、「損得」や「効率」だけで考えれば、大学で体育会に入ること、いることを、手放しでおすすめはできないです。しかし、そんな思い通りにいかない日々だからこそ、面白かった。苦難の連続でしたが、早慶戦のあの場所に立てたことを振り返れば、ラッキーなシンデレラになれたのだとも思います。僕の物語はここで幕を閉じますが、君たちの戦いはまだまだ続きます。どうか、僕の分まで泥臭くあがき続けて、成長してください。これからは、僕もサポートする側にまわり、全力で応援していきます。

 最後になりますが、4年間支えてくださったスタッフ、OBの皆様、チームメイト、応援してくださったすべての皆様、そして一番近くで支えてくれた家族に、心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。幸せな時間でした。

← 戻る