
はじめに|引退した今の自分から
誠に僭越ながら、自己紹介をさせていただきます。慶應義塾大学法学部政治学科4年、ならびに体育会バスケットボール部において副将を務めておりました、椎橋遼生と申します。
引退してからしばらく経ちました。正直、バスケットボールができなくなったことへの強い喪失感は、想像していたほど大きくはありませんでした。現在は、釣りやサウナや読書、そしてジムでのトレーニングに励んでいます。卒業旅行が楽しみです。
それでも、ふとした瞬間に体育館や部室の匂いや、練習の緊張感などを思い出すことがあります。そのたびに、これまでの経験を一度、整理しておきたいと思うようになりました。
私のバスケットボール人生は、決して順調なものではありませんでした。むしろ、立ち止まり、迷い、問い続けてきた時間の方が長かったと思います。この文章は、私自身の成功体験を誇るものではありません。それでも、問いに向き合い続けてきた記録として、残しておきたいと思いました。
私はこの引退ブログを、これから同じ場所に立つ後輩や進路を迷っている人、そして今までお世話になった方々に向けて書かせていただきます。拙文ではございますが、最後までお目通しいただけますと幸いに存じます。
第一章|問い①「ここまでして、バスケットボールを続ける意味はあるのか」
私は、長い期間に渡り体育会バスケ部から離れた経験があります。大学一年次のリーグ戦期間中に発症した椎間板ヘルニアにより長期離脱し、大学二年次の夏には自らの意思で退部しました。
ヘルニアを発症した当時は、ベッドから起き上がることすらままならない状態が続いていました。体育館へ向かうこと、練習の時間を軸に一日を組み立てること、コートに立って汗を流すこと。そうした日々が、突然、自分の手の届かないものになっていきました。練習に参加できず、部員数の少なかったチームの中で、自分一人が抜けたことで迷惑をかけているという負い目を強く感じていました。手術後のリハビリでも身体は思うように動かず、焦りと無力感ばかりが募っていきました。そして何より、「自分はもう以前のようには戻れないのではないか」という不安が常に頭の中にあり、痛みそのものよりも、その不安の方が自分を追い詰めていたように思います。
その不安感に駆られる中で、バスケットボールに向き合うこと自体が次第に怖くなっていきました。そして、チームの一員としての自分の存在意義が分からなくなっていきました。怪我によって長期離脱を余儀なくされた選手は、この気持ちを理解してくれると思います。長期離脱をすると、「自分はなぜここまでしてバスケットボールを続けているのか」「続ける意味はどこにあるのか」が、次第に分からなくなりがちです。当時の私は、その問いに答えを出すことも、とにかく続けるんだ!という気概も持てず、中途半端な時間を過ごしていました。
そんな中、受験生時代にお世話になった学習塾でのアルバイトは、私にとって大切な居場所でした。大好きな同期や先輩と共に生徒と向き合い、彼らの成長に伴走してきた時間は、怪我や競技のことを一度忘れさせてくれるました。そして怪我のタイミングで、校舎長を務めてみないかという話をいただいたとき、不思議と心が軽くなったのを覚えています。責任の重さは理解していましたが、それ以上に、今の自分でも誰かの役に立てるかもしれないという感覚がありました。競技生活の中でいつの間にか感じられなくなっていた「ワクワク」を、久しぶりに思い出した瞬間だったと思います。
ただ、その時点で「もうバスケットボールをやめよう」と決めていたわけではありませんでした。むしろ、できることなら競技も続けながら、新たな挑戦にも向き合えないかと考えていました。しかし、体育会という組織においては、部活動に対して中途半端な関わり方は許されません。私は休部という形での継続を願い出ましたが、それは認められず、選択肢として示されたのは「続けるか、退部するか」の2つだけでした。どちらを選んでも、簡単な道ではありませんでした。バスケットボールを続けるなら、今感じている迷いや不安を抱えたまま競技と向き合うことになる。一方で、校舎長としての仕事に本気で向き合うには、これまで続けてきた競技から一度離れる覚悟が必要でした。
結果として、私は退部という決断を下しました。今振り返れば、多くの方々に迷惑をかけた身勝手な決断だったと思います。しかし私は今になっても退部という選択を後悔していません。むしろ、あのタイミングで競技から一度離れ、人と本気で向き合う経験を積んだことは、その後、副将として何を大切にし、どのようにチームと関わるべきかを考える上で、非常に大きな意味を持っていました。
第二章|問い② 「自分は、本当にやり切ったと言えるのか」
校舎長としての経験は、私にとって本当に貴重なものでした。生徒1人ひとりの受験プランの策定から、日々の教務、保護者対応、講習会の企画・運営、さらには金銭面や人事面のマネジメントに至るまで、学生の立場ではなかなか任されることのない責任を数多く経験させていただきました。
その中で、人と関わる上で何が大切なのか、どのような距離感で相手と向き合うべきなのか、どんな言葉を選ぶべきなのかといった、コミュニケーションの本質を学ぶことができたと思います。生徒の結果がそのまま自分の責任として返ってくる環境の中で、人の成長に本気で関わり続ける日々は、自分自身の在り方そのものを問い直す時間でもありました。
そんな校舎長としての仕事を終えたとき、私は初めて、「自分の判断と行動に責任を持ち、最後まで走り切った」と言える達成感を得ました。校舎長の仕事には、役割・期限・評価軸が明確に存在していました。誰に対して何を提供するのかがはっきりしており、受験という期限があり、合否や本人の納得感といった形で結果が返ってきます。もちろん結果がすべてではありませんが、少なくとも「自分が果たすべき責任の範囲」と「一区切りをつけるタイミング」がありました。だからこそ、最後に結果と正面から向き合ったうえで、「ここまでやった」と自分の中で区切りをつけることができたのだと思います。
一方で、バスケットボールに関しては、その区切りを自分の中でつけられていないことにも気づかされました。怪我だったのだから仕方がない、という理由は確かにありました。しかしそれは、「やり切ったから終える」という終わり方ではなく、「続けたくても続けられない状況の中で中断した」という終わり方でもありました。校舎長の仕事は、期限が来れば終えることができますが、競技はそうではありません。自分自身が納得できる形で向き合い切らない限り、事情があって離れたとしても、気持ちの上では終わったことにならないのだと思います。
さらに言えば、校舎長としての仕事は、「自分がコントロールできる領域」が比較的はっきりしていました。生徒の状況を把握し、プランを立て、必要なサポートを積み上げる。相手の努力や運に左右される部分はあっても、自分が取るべき行動の方向性は明確で、反省も改善も次に繋げやすい仕事でした。一方で、当時の私は怪我によってプレーそのものが制限され、競技者として最も重要な部分がコントロール不能な状態にありました。努力の向け先が定まらないまま時間だけが過ぎ、チームに迷惑をかけているという感覚だけが積み重なっていく。その状況のまま競技から離れたことで、「自分は本当に向き合い切ったのか」という問いが、未解決のまま心に残り続けたのだと思います。
だから私は、「自分は、本当にやり切ったと言えるのか」という問いに対して、NOを出し、もう一度バスケットボールと向き合う決断をしました。競技を続けるかどうか以前に、自分の中で止まったままになっていたこの問いに、きちんと区切りをつける必要があったのです。

第三章|問い③「自分は、このチームで何者なのか」
再入部は、チームにとって前例のない選択でした。もちろん、私自身が「戻りたい」と思っただけで成立するものではなく、同期や社会人スタッフの方々が間に立ち、何度も話し合いの場を設けてくださったからこそ実現したものです。だからこそ私は、再び部に戻る以上、「部にいること」そのものが信頼の上に成り立っているということを、常に意識しなければならないと感じていました。再入部とは、以前の居場所や人間関係に戻ることではなく、もう一度ゼロから関係を築き直すことだと考えていたからです。
同時にそれは、自分の立ち位置が自明ではなくなるということでもありました。同期として、選手として、あるいは一度部を離れた人間として、チームの中で自分はどのように見られているのか。何を期待され、何を担う存在なのか。そのどれもが曖昧な状態のまま、私は再び体育館に立っていました。だからこそ、「自分はこのチームで何者なのか」という問いが、再入部後の私の中に強く立ち上がってきたのだと思います。
しかし、その問いに対して、すぐに答えが見つかるわけではありませんでした。身体のブランクもあり、再入部してからの一年間、私はチームの中で明確な役割を持てないまま時間を過ごしていました。プレー面で突出した存在になれるわけでもなく、周囲に強い影響を与えられる立場でもない。ただ目の前の練習をこなし、与えられたメニューに必死に食らいつく日々が続いていました。
今振り返るとこの時期は、「何者かになろう」ともがくというよりも、「何者にもなれていない自分」を突きつけられ続けられたように思えます。再入部したからといって、居場所や役割が自然に戻ってくるわけではない。その現実を、日々の練習の中で痛感していました。
だからこそ、代替わりを前に行われた同期での話し合い、特に主将・副将を誰に任せるのかという議論は、私にとって非常に重たい意味を持っていました。それは単なる役職決めではなく、「このチームの中で、自分はどのような存在として関わるのか」という問いを、正面から突きつけられる場だったからです。議論は一度で結論が出るようなものではなく、何度も振り出しに戻りながら、時間をかけて繰り返されました。
最終的に、廣政と私が主将と副将に立候補する形になりました。廣政は自他に厳しく、高い基準を掲げながら前に立ってチームを引っ張る力を持っています。一方で私は、決して彼のようなストイックさでは敵わないものの、周囲の小さな変化に気づき、コミュニケーションを通じて人を支えることを強みとしてきました。前に立って声高に引っ張ることはできなくても、後ろや横に立ち、誰かが前を向き直すきっかけをつくることならできるかもしれない。再入部という立場だからこそ見えていた距離感や違和感を、チームのために使いたい――それが、当時の私なりに考えた「このチームでの自分の役割」でした。
しかし、その構想は簡単には受け入れられませんでした。社会人スタッフの方々から告げられたのは、「副将としての必然性が見えない」という言葉でした。その背景には、私が一度部を離れ、再入部しているという経緯がありました。一度離れた人間が役職を担う以上、周囲が納得できるだけの理由や実績が求められるのは当然のことです。
にもかかわらず、再入部後の一年間、私はチームに対して「この人が副将であるべきだ」と言ってもらえるほどの明確な貢献を示せていたとは言えませんでした。競技面でも組織面でも、突出した存在にはなれていなかった。その状況で、「髙島さんのような副将を務められるのか」「そもそも副将である理由は何か」と問われたのだと思います。
当時は、冷静に受け止めきることができませんでした。自分のこれまでを否定されたように感じ、強い悔しさすら覚えました。自分なりに積み重ねてきた時間や思いが、一度に否定されたように感じ、心も折れかけました。「もうここまででいいのではないか」と考えた自分がいたのも事実です。
しかし今振り返れば、その判断は決して理不尽なものではなく、再入部という立場にある私に対して、「役職を任せるだけの理由を日々の練習内外で示せているのか」と問う、組織としては極めて真っ当な判断だったのだと思います。少なくとも、感情や同情で役職が決まるような組織ではありませんでした。――改めて、慶應義塾体育会バスケットボール部は、素晴らしい組織です。
とにかく、再入部してから1年経ち、最上級生になった私の前には、「自分は、このチームで何者なのか」という問いが、これまでになく重たいものとして立ちはだかりました。
第四章|問い④「それでも、向き合い続けるのか」
「自分は、このチームで何者なのか」。そして、「何者でありたいのか」。
この問いは、当時の私にとって、簡単に答えを出せるものではありませんでした。再入部という立場、十分な実績を示せていない現状、その中で役職を望むことの重さ――考えれば考えるほど、自分の中で言葉が噛み合わなくなっていきました。
「答えを出せないまま役職を引き受けるくらいなら、身を引いた方が良いのではないか。」 「自分は何者なのか。」
自分自身と向き合い切れていないまま、副将という肩書きを背負うことはできない――当時弱気だった私は、そう考えていました。
そんなとき、同期の海丸が、私に次のような言葉をかけてくれたのを覚えています。
「副将について考えることから逃げるのは良くない。仮にその状態で後輩に副将をお願いできるの?誰も正解なんて知らないし、答えは自分で見つけていくものだと思う。副将というのはただの肩書きかもしれないけれど、その一年間で悩み、考え、追い求めた過程で得たものを、下の世代に残すことが務めなんじゃないの?一度部を離れた人だからこそ見えるものもあるし、それが誰かのためになるかもしれない。すぐに結論を出さなくていい。でも、考えることからは逃げない方がいい。今ここで逃げたら、この一年はずっとそういう一年になる。」
この言葉を聞いたとき、自分が何から逃げようとしていたのかが、はっきりと分かりました。副将をやるかどうか以前に、私は「自分は何者なのか」「なぜその役割を引き受けたいのか」という問いそのものから、目を背けようとしていたのです。答えが出ていないことを理由に、その問いを途中で放棄しようとしていた――今振り返れば、そういう状態だったのだと思います。
副将とは何か。その役割に、あらかじめ用意された正解があるわけではありません。だからこそ、悩み、考え、追い求めた過程そのものに意味がある。その過程で得たものを、後輩やチームに残していくことこそが、役職を引き受ける責任なのだとこのとき初めて腑に落ちました。
そこで私は、まず副将に「なる」かどうかではなく、副将に「ふさわしい振る舞いを積み上げる」ことに全力を注ごうと決めました。声出し、準備、練習への向き合い方、誰よりも完璧である必要はありません。ただ、誰よりも真剣でいることだけは、やめない。評価されるかどうかではなく、自分が自分に説明できるかどうか。その基準で、一日一日を積み重ねていこうと思いました。
最上級生として過ごすこの一年間、私は自分自身だけでなく、自分に突きつけられた問いからも、逃げないと心に決めました。この問いに向き合い続ける姿勢を持ち続けたからこそ、最上級生として過ごした一年間で、心技ともに少なからず成長できた気がします。
最後に|
私がこの4年間を通じて、自分自身に突きつけられた問いから逃げないことがいかに大事か気づくことができました。うまくいっていた時期、怪我、退部、再入部、副将として悩んだ時期ーそのすべての局面で、私は何度も立ち止まり、「自分はどうありたいのか」「何を選ぶのか」を問われ続けてきました。問いから逃げることもありましたが、自分なりに問いに向き合い続けた時間が、私をここまで連れてきてくれたのだと思います。
そしてもう一つ、私は「人は決して一人では前に進めない」ということも再認識させられました。どの局面を振り返っても、自分一人の力だけで乗り越えられた出来事は一つもありません。常に誰かの支えがあり、その支えがあったからこそ、立ち止まりながらも前に進むことができました。
私が退部し、学習塾で校舎長を務めていた頃に出会った、心から尊敬する方が大切にしていた言葉に、 pay it forwardというものがあります。自分が受けた支えや親切を、直接返すことができなくても、別の誰かへとつないでいく。その連鎖によって、人や組織は支えられていくという考え方です。慶應義塾体育会バスケットボール部も、まさにその連鎖の上に成り立ってきた組織です。先輩から後輩へ、技術面だけでなく、姿勢や覚悟、そして人との向き合い方が受け継がれてきたからこそ、チームは今日まで続いてきたのだと思います。私自身もまた、その連鎖の中で支えられてきた一人でした。だからこそ私は、これまでの恩を、次の世代へと返していきたいと強く思います。
ここまで書いてきて、どうしても触れずにはいられない言葉があります。三浦綾子の小説『続氷点』に次のような一節があります。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」
この言葉に出会ったとき、私は強い衝撃を受けました。それは感動というよりも、これまでうまく言葉にできずにいた何かに、初めて輪郭が与えられたような感覚でした。副将とは何なのか。自分は何を大切にし、何を果たそうとしてきたのか。私はその答えを、明確な言葉として掴めていたわけではありません。それでも、この一文に触れた瞬間、自分が向き合い続け、自分なりに全うしてきた副将という役割の核心に、触れられた気がしたのです。
おそらく副将とは、何かを得る立場ではなく、誰かのために与え続ける役割なのだと思います。そして、自分が差し出してきたものは、決して無意味ではなく、私の一生の中で確かな意味を持つものなのだとも、受け止めることができたのです。そして私自身もまた、多くの方々から数えきれないほどのものを与えてもらってきたのだということにも、改めて気づかされました。
私が慶應義塾体育会バスケットボール部で過ごした時間は、この組織の歴史の中では、ほんの一瞬に過ぎません。チームはこれからも続いていき、私の名前が語られることは、きっとほとんどないでしょう。それでも、その一瞬の中で、誰かの背中を少しでも押せていたのか、誰かの不安に寄り添えていたのか、誰かの原動力になれていたのか――もし、ほんのわずかでも誰かに何か与えることができていたのであれば、これ以上嬉しいことはありません。そうした小さな積み重ねが、今の私自身を確かに形づくっているのだと思います。
この文章を読んでくれている後輩たちも、これから部員として、そして一人の人間として、悩み、苦しみ、立ち止まる瞬間がきっと訪れます。そんな時に抱えるであろう、「自分は何を与えられるのか」「何を残していきたいのか」という問いを大切に生きてほしいです。私も、これから先の人生で、迷い、逃げたくなり、それでもまた向き合う――そんなことを何度も繰り返していくと思います。それでも、その問いから目を背けずにいられる限り、きっと前に進み続けることはできるはずです。再入部から副将として奔走してきたこの一年余りは、その問いを持ち続けること自体に意味があるのだということを、確かに私に教えてくれました。
最後になりましたが、自分と向き合うきっかけを与えてくれた先輩方、ともに悩み、支えてくれた同期や後輩のみんな、社会人スタッフの方々、日頃から多大なるご支援とご声援をくださったOBの皆様、保護者の皆様、そして各カテゴリーで関わってくださったコーチ、先生、監督の方々に、心から感謝申し上げます。皆さんのおかげで、私はここまでバスケットボールを続けることができましたし、後悔のない、自分の人生の中でも最も濃密な四年間を過ごすことができました。最後に、今までこんな俺のそばでいろいろなものをたくさん与えてきてくれたお父さんとお母さん。最後の1年でやっと少しだけ恩返しができた気がします。今まで本当にありがとう。





