自己中な僕が主将になるまでの四年間

はじめに

 今年度主将を務めさせていただいておりました、林泰我です。

 慶應義塾中等部から入塾し、大学4年までの10年間は、いつもバスケットボールと共にありました。そんな10年間を振り返りながら、私が4年間を感じたことを伝えられたらと思います。

大学での初めての挫折

 慶應義塾中等部から入塾した僕は、姉の影響もありバスケットボール部に入部しました。中学生で初めて代々木第二で早慶戦を観戦したとき、会場を満員にする観客の熱気と全力で戦う選手とそれ支えるベンチの一体感に、感動と衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えています。その日から体育会でプレーしたい!と明確に意識していました。

 初めの方から試合にでられていた僕は、中学ではキャプテンを務め、高校でも地域の選抜に選ばれる程の選手でした。チームの中では僕が1番上手で高校では一年生から試合に出ていた僕は、恥ずかしながら自分は上手だと思っていましたし、正直チームどうこうではなく、自分がどれだけたくさん点数を取れるかということしか気にしていませんでした。大学でも初めは苦労するものの、上級生になれば試合に出れるだろうという考えで入部しました。

 入部して初めは一年生の仕事と朝練で忙しく、実力が不足していた私は全体練習にも参加できず、雑用と先輩のリバウンドをする毎日でした。それでも体育館を使える短い時間で自主練を頑張り、一年生の終わりには、ポイントシューターとして数分出られるほどになりました。

 2年生になるタイミングで、監督陣が変わり、ディフェンスのできなかった私は全く試合にでることができなくなりました。初めはAチームに戻るために頑張ろうと思い練習を人一倍頑張りました。しかし、何ヶ月も結果が出ない日々が続き、私は次第に周囲の環境や監督陣の起用のせいにするようになっていきました。当時の僕はディフェンスができない実力のない下手くそな自分に向き合うことができませんでした。それから僕は、納得できない練習メニューに対しては適当にやったり、当時の学生コーチに起用や練習の文句を言ったりしました。本当に申し訳ないことをしたなと思っております。

 そんなことをしていては、当然ながら出場からはどんどん遠のいていき、このままならやめた方がいいんじゃないと先輩に言われるような状態でした。自分でも毎日練習に行くのが嫌で、部活を辞めようとも考えていました。

 しかし、辞めなかったのは自分のプライドと親と同期の支えがあったからでした。

 体育会に憧れ努力してきた中等部の頃の自分にも、自分が出ない関西の試合まで毎試合欠かさずに観に来てチームを応援してくれていた両親にも、また、僕のチームに対しての不満をずっと聞き支え、自分よりも努力していた同期にも、こんな努力もせずに周囲のせいにしている僕から、頑張っても試合に出れないからという理由で辞めるとは言い出せませんでした。同じ環境で文句ひとつ言わずに自分に向き合い、頑張っている同期をみて、自分が恥ずかしくなりました。

 そこから、物事が思うようにいかなかったとき、自分に対して理不尽なことがあったとき、それに対して文句を言い続けるのではなく、自分にベクトルを向けて自分のできることに目を向けて努力することの大切さを実感しました。当たり前のことだと笑われてしまいそうですが、僕にとっては大きな成長、分岐点だったと思います。

 だれが読んでくれているか分かりませんが、私と同じBチームで試合に出られず苦しんでいる人に向けて、当時僕が考えていたことを伝えたいと思います。

 BチームからAチームに上がることは、簡単なことではないと思います。元々実力の差があることに加えて、環境としてもAチームの方が良いため、上達しやすいからです。

 さらにAチームは、Bチームに比べ練習中ハイレベルに競い合うことができ、コーチ陣から自分のプレーに対してのフィードバックが多くもらえます。そして、試合経験も豊富です。Bチームで練習を幾らがむしゃらに頑張っても、Aチームも同じく当たり前に頑張りますし、環境的に有利な上に元々実力のあるAチームに追いつくことは、難しいと思います。この理不尽なスタートとの追いかけっこにどうやって追いつくかが大事なのではないでしょうか。頑張っているのに結果が出ない毎日が本当に悔しく、気持ちを切らさずに頑張り続けることは、難しいと思います。だからこそ、私は、自分がやるべきこと、取り組むことを書き出して、それに集中するようにしていました。

 私は、食事管理や毎日のトレーニングを徹底することは、コート外の時間でも行えることから、他の練習に比べて結果に直結しやすいと考え実行しました。毎日成長しているのか不安なとき、変化が見えやすいトレーニングに救われていた部分もありました。僕はトレーニングによって人生が変わったと感じていますし、本当に試合に出られるようになれたのは、トレーナーの大室さんのお陰だと思っています。

 そうして、トレーニングや食生活を中心にコート内外の自分と行動を一から見直し、自分が試合に出るまでの計画を立て、夢中で実行してから1年ほど経つと試合に出られるようになりました。そして、三年時には夢にまで観た早慶戦で、スタートとしてコートに立ちました。

四年目

 初の早慶戦出場の翌年、四年で主将として最後の年を迎えました。

 自分でやりたいと手を挙げてなった主将でしたが、はじめは、歴代の主将に名を連ねることに対してプレッシャーを感じていました。実力もカリスマ性もない僕に何ができるのか悩みました。ただ、1年生の頃、Bチームで雑用の毎日だった僕にしかできないチーム作りがあると確信がありましたし、自分がチームのことを1番考えている自信がありました。チームのことを大きく変えることのできた一年になったと思います。

 チーム作りをする上で、自分たちがされて嫌だったことは、自分たちがなくしたいと思っていました。僕らの代は、一年生で多くの部員が去り、それにより苦労した経験があったので、後輩にこういう思いをさせたくないなという思いがありました。

 体育会には本気でスポーツにコミットするひとが集まるべきであり、厳しさが付き物だと思います。しかし、毎年一年生が入っても半分は辞めてしまうことがほとんどで、部員は少なく、選手の怪我が重なれば練習でゲームもできないことも多くありました。

 体育会としての必要な厳しさや規律、残さなければいけない伝統との葛藤の中でチームを変えていかなければならなかったです。その中で私たちの代は、後輩の意見に対しても全てフラットに聞き入れ、対話する姿勢を持つことで、従来のチームの年功序列の縦社会でなく、フラットなチーム作りをすることにしました。結果として一年生は22人の入部があり、一人も辞めることなく、来年からはBチーム単体でも試合に出場できるほどになりました。

 しかし、チームを変えればいままで起きなかった問題やいままでの環境が心地よかった人からの反対意見が飛び交いました。ましてや僕らは部員の半数以上を占める一年生や下級生、上級生に全員に対してビジョンを共有して対話することや、私も主将として至らぬ点が多くあったことも事実なので、当然だと思います。後輩の数名からは、「去年の方が良かった」「主将として仕事をしていない」と言われてしまいました。後輩のため、チームのためと思ってのことだったがために、理解してくれない後輩に腹が立ち、悔しかったのを覚えています。

 そんなときに、先輩から言われた『自分のためより、チームのためが、自分のため』という言葉に救われました。シンプルですが、主将として大事にしてきた言葉です。

 チームのためチームのためと日々考え行動すればするほど、それに対してチームメイトから自分の思ったリアクションがないと、自分はチームのためにこんなにやっているのに、と腹が立ってしまったり、自分のやってきたことに不信感を持ったりします。チームのために行動するときには、チームのためにすることが、結局自分のためにやっているのだと本気で思うことが大事だと思います。怒っている時点で見返りを求めてしまっている自分に気がつきました。

 チームをマネジメントするには、異なる価値観を受け入れる姿勢が求められます。また、チームの目的のために、学生スポーツとして勝利を目指す中で、常に優先順位や自分自身、チームの方向性について悩み、矛盾や葛藤を抱えながら決断を下していく必要があります。それこそがチームマネジメントの苦しさであり、面白さであり、私を人として成長させてくれたのかと思います。時には、主将に手を挙げなければ良かったかもしれない、私は主将の器ではないのかもしれないと思うこともありました。しかし、主将としての一年を終えた今、主将の道を選んだことに後悔はありません。

同期へ

 振り返れば、同期に支えられた4年間でした。Bチームのときも、主将になってからも、早慶戦前にストレス性胃腸炎になったときも、ずっと自分が壁に当たり、つらかった時に、支えてくれたのは同期でした。かけてくれた言葉は一生忘れることはないと思います。この同期なしに部活は4年間続けられなかったと思います。本当にありがとうございました。5人全員が一生の友であると確信しています。

最後に

 4年間、チームで掲げた目標は一つとして達成できませんでした。引退した今でも、やりきったとは言い切れず、悔いがないとも言えません。「あのとき、こうしていれば…」と考えてしまうことばかりです。

 それでも、この4年間を通して僕を成長させてくれた慶應義塾のバスケットボールには、感謝してもしきれません。自分の活躍しか興味のない自己中心的だった僕が、いつの間にかチームのことを考える時間の方が長くなっていました。この環境で、本当に多くのことを学ばせていただきました。

 特に最後の4年間は、つらく苦しいこともたくさんありました。それでも今、はっきり言えることがあります。もし、2015年の中等部生だった春に戻るとしても、もう一度バスケ部に入り、志木高へ進学し、慶應義塾体育会バスケットボール部で活躍することを目指したい──そう思えるほど充実した時間でした。

 同じ目標に向かってともに戦い、熱中し、ときにぶつかり合いながら自分を成長させてくれた仲間と、この環境はどこにでもあるものではありません。

 こんな僕に真剣に向き合ってくださった附属校での先生方、先輩、後輩、同期、そして慶應義塾バスケットボール部に関わるすべての方々に、心から感謝しています。多くの人に支えられた10年間でした。直接感謝を伝えたい人がたくさんいますので、その機会を必ず作りたいと思います。

 卒業後も、このご恩を決して忘れず、慶應義塾のバスケットボールに必ず恩返しをしていきます。

 10年間、本当にありがとうございました。