慶應義塾大学文学部ならびに体育会女子バスケットボール部4年の石倉史菜(CN:スズ)と申します。拙い文章とはなりますが、この4年間の体育会生活と自分の想いを精一杯綴らせていただきますので、最後まで読んでいただけますと幸いです。
振り返れば、嬉しいことも悔しいことも楽しいことも辛いことも様々な感情を経験できた濃密な4年間でした。決して順風満帆だったとは言えませんが、間違いなくこの場所でしか経験できない貴重な時間であったと思います。
私が入部したきっかけは、高校時代の2学年上の先輩である川俣乃英さん(23年卒)から声をかけていただいたことでした。元々、体育会でバスケをやろうと思っていたわけではなく、漠然とサークルなどに入ろうかと考えていました。しかしながら、コロナ禍で高校の部活動が不完全燃焼で終わってしまったことや、せっかくなら何かに全力で打ち込む4年間にしたいと思ったことから、入部を決意しました。1年目は、右も左も分からず先輩方についていくことに必死でしたが、高いレベルでプレイできることが新鮮で、日々の練習が楽しかったことをよく覚えています。試合の中で少しずつローテーションに入れるようになり、有難いことにリーグ戦でも出場機会を頂くことができました。大学バスケのレベルを肌で感じるとともに、「もっと上手くなってチームに貢献したい」と思えた1年でもありました。
2年目は、自分の武器とチーム内での役割が明確化し、特にプレイ面で自信に繋がる1年であったと思います。シーズンが始まってすぐの12月に行われた慶関戦では、個人として初めてスタートで出場させていただき、チームとしても慶関戦史上初めて関西大学に勝利することができました。また、5月に代々木第二体育館で開催された早慶戦は、前年と異なり有観客での試合でした。たくさんの観客の方に応援していただきながら、あのコートでプレイできた高揚感と特別感は今でも忘れられません。リーグ戦では2部昇格を目指していましたが、その前の入替戦をかけた試合で、あと一歩のところで敗戦しました。非常に悔しい思いでいっぱいでしたが、「来年は必ず目標を達成して、この悔しさを晴らしたい」と強く思えたシーズンでした。
3年目には、4月に行われたトーナメントにおいて、当時関東リーグ2部Bに所属していた青山学院大学に勝利することができました。公式戦で2部所属の相手に勝利し、チームとしても個人としてもリーグ戦に向けてモチベーションが高まっていたと思います。しかしながら、選手権大会が終わってすぐの頃、それまで騙し騙しプレイしてきた左膝の半月板が悪化し、長期離脱を余儀なくされました。手術は選択せず、5ヶ月ほど保存療法でのリハビリを行った末、10月の順位決定戦で復帰することができました。パフォーマンスとしては十分に満足のいく状態ではありませんでしたが、そのなかでも自分のできることを精一杯頑張ろうという思いでプレイしていました。
しかし、そんな矢先に、試合で相手選手と接触して右膝がグキっと音を鳴らしました。長いリハビリから復帰して2週間も経たないうちに、反対側の膝を負傷したことに全く気持ちの整理が追いつきませんでした。結局、左膝と同様に半月板損傷と診断されましたが、正直すぐに復帰に向けてまた一から頑張ろうという気持ちにはなれなかったと思います。「また怪我をするんじゃないか」とか、「復帰しても自分の思い描くプレイはできるのかな」とか、先の見えない日々が続くなかで、ネガティブな思考ばかりが頭に浮かんでいました。その頃、チームとしては3部6位という結果でリーグ戦を終え、結局2部昇格という目標には届きませんでした。先輩方の引退が見えてくると同時に、同期と自分たちの代について話し合う時間が増えましたが、正直なところ怪我のことで頭がいっぱいでした。今思えば、当時は最上級生になるという自覚と覚悟が足りず、自分のことで精一杯な未熟な人間であったと思います。
ラストシーズンが始まり、怪我から2ヶ月ほど経過しても右膝の状態はあまり良くならず、松葉杖生活が続きました。12月に通院した際には、病院の先生から手術を勧められました。当時は、バスケのため、というよりも、まずはしっかりと膝を治療して制限なく動けるようになりたいという思いから、両膝半月板の手術を決断しました。1月に手術が終わってから、その後数ヶ月間のリハビリ経過が良好だったこともあり、ぼんやりとしていた復帰の目標が少しずつ明確となっていきました。気持ち的にも、6月の早慶戦までに復帰して、リーグ戦ではベストな状態でプレイがしたいと強く思うようになりました。
しかしながら、4月に入ると、それまで順調に回復していたはずの膝の調子が思うように上がらなくなりました。ランニングや軽めの動作はできるのに、それ以上の激しい動きやバスケットができる膝の状態には程遠いという感覚でした。結局目標としていた早慶戦には間に合わず、7月末になっても状態が大きく変わることはなかったため、満足のいく状態でリーグ戦に出ることは難しいかもしれないと直感的に感じるようになりました。この頃から、「プレイヤーをやめる」という選択肢を現実的に考えるようになったと思います。メンタル的にもこのままリハビリを頑張れる自信がありませんでしたし、それ以上に、また怪我をすることが怖くて本当にバスケがしたいのかさえ分からなくなっていました。また、「長い間コートの外でリハビリを続けている私は、このチームにいる意味があるのだろうか」と考えてしまうこともありました。
こんな気持ちでリハビリを続けても、チームにとっても自分にとっても絶対にプラスにならないと思いましたし、それなら他の方法で貢献するべきではないかという考えが強くなっていました。悩んだ末、夏合宿の少し前に、社会人スタッフの方々に「プレイヤーをやめたい」という気持ちを伝えました。今辞める選択をした方が、さまざまな不安やモヤモヤから解放されて、純粋にチームの目標達成に対して真っ直ぐになれると思ったからです。
ただ今思えば、この決断は、何を言われても自分の意思を貫けるほどの強い覚悟を伴ったものではなく、苦しい状況から逃げ出したい自分自身が吐いた弱音に過ぎないものでした。
このとき、自分の正直な気持ちや不安を全て聞いた上で、「絶対復帰させるから」という心強い言葉で励ましてくださったトレーナーの方々には本当に感謝しています。ほかにも、「まだできるよ」と言って弱気になっていた自分を鼓舞してくれた方が沢山いました。前向きでいられず辛いことから逃げようとしていた自分が本当に情けないですが、背中を押してくれた方々のおかげでもう一度前を向くことができました。
そこから3ヶ月弱のリハビリを経て、引退試合である六大学戦の2週間前に対人メニューへ復帰できるまで回復しました。最後の六大学戦で、頼もしくなった後輩と、そしてこれまで全員でコートに立つ機会が少なかった同期と一緒にプレイできたことに心から感謝しています。
怪我の経験を通して、試合に出られることが当たり前なのではなく、たくさんの人に支えられていることに改めて気づかされました。また、大きな壁にぶつかった時に、ネガティブなことばかり考えてすぐに下を向いてしまう自分の弱さと向き合うことができました。「あの時怪我をしていなければ」という気持ちがないと言えば嘘になりますが、この挫折を経験したからこそ学べたことが沢山あったと思います。
体育会生活を振り返ってみて、特にラスト2年間は圧倒的に辛いことの方が多かったですし、部活を辞めたいと思ったこともありました。それでも、目標に向かって死ぬ気で頑張るチームメイトの姿や、周囲の方々から頂いた励ましの言葉があったから、最後までもがき苦しみながらも頑張ることができました。この体育会で4年間やり切った経験は、間違いなく自分にとって大きな財産になると信じています。ここで得た沢山の学びとかけがえのない出会いは、社会人になっても大切にしていきたいです。
最後にはなりますが、OB・OGの皆様、社会人スタッフの方々、同期、先輩、後輩、家族、友人など、本当に多くの方に支えられてここまでバスケを続けることができました。
今まで関わってくださった全ての方々に、この場を借りて御礼申し上げます。
長文となりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今後とも体育会女子バスケットボール部の応援をよろしくお願いいたします。