こんにちは。慶應義塾大学総合政策学部4年ならびに、体育会女子バスケットボール部の野本美佳子(CN:ユズ)と申します。
今回は引退ブログということで、これまでのバスケ人生を振り返らせていただこうと思います。拙い文章ではありますが、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
私は小さな頃から体を動かすことが大好きで、友達に誘われてバスケを始めました。ミニバスの練習は厳しく、毎日を乗り越えるのに必死でした。負けず嫌いだった私は、先にバスケを始めていた同級生に負けたくないと、アップのダッシュなど、ちょっとしたことから「全部勝ってやる!」という気持ちで頑張っていました。6年生の頃には、全ミニに出場し、優勝することができました。
小学校卒業後、父の仕事の都合で地元を離れ、東京の中高一貫校に入学しました。東京では1位・2位を争う学校で、バスケを理由に入学してきた同級生が16人いました。16人もいると、まとまりもなく、問題児学年と認識されていました。バスケに関すること、学校生活のこと、毎日誰かしら先生に怒られていました。当時キャプテンだった私は、誰かが起こした問題を何度も職員室に謝りに行っていました。体育館で練習した思い出よりも、職員室で怒られた時の思い出の方が多いです。今では、集まるたびに当時のことを振り返っては、笑い話として何時間も語り合っています。
ここでの3年間が私の性格を作ったと思います。自責で考え、自分がどうにかしなきゃと考え、物事をネガティブに捉え、小学校の頃に比べ少し後ろ向きの性格になりました。
そんな問題児学年も、3年生の時には目標だった全国大会に出場することができ、今までの辛い経験やしんどい思いが報われたような気がしました。
中高一貫校だったため、引退した1週間後から高校の練習に合流しました。中学では経験したことのないフィジカルの強さと、練習強度の高さについていくのに必死だったのを覚えています。食事サポートや外部の方のクリニック、トレーニングなど、恵まれた環境でバスケに熱中していました。高校2年生の冬、試験期間中に監督に呼び出され、何か悪いことをしたかなと、ビクビクしていたところ、「慶應を受験しないかという話がある」と言われました。親と相談した結果、受験に挑戦することを決意しました。その日からOGの髙瀬さん(2020卒)が受験のサポートをしてくださいました。
髙瀬さんをはじめ、家族や学校の先生など、多くの方に協力していただき、無事合格することができました。高校最後のウィンターカップでは、同期のエースが怪我をしてしまうなど、部としてベストコンディションではなかったこともあり、ベスト16で終わってしまいました。高校でやり残したという気持ちや、自分の人生を大きく変えてくださった髙瀬さんへ恩返しをしたいという思いがあり、体育会への入部を決めました。
「2部昇格」。この目標を掲げた4年間は、簡単に乗り越えられる日々ではありませんでした。
入学をしたのかしていないのか分からないまま、大学生活が始まりました。コロナ禍で、部活もオンラインで開催され、いつになったらバスケができるのだろうと、不安な日々が続きました。 やっと練習ができたのはリーグ戦2ヶ月前。ただでさえ時間がないのに、リーグ戦前の最後の練習試合で、肩を脱臼しました。結果を残すためにも少しでもコートに立ちたいという思いから、かなり焦りました。どうにか治して、リーグ戦3戦目から参加することができました。結果としては、3部のグループリーグ2位。コロナ禍で3部全体の順位決定戦が無かったことを考慮しても、前年の3部18位からと比較すると、大きく成績を上げることができました。高校でも1度同じ肩も怪我をしていたため、手術を免れることはできなかったので、リーグ戦が終わった次の日に手術を受けました。手術を終えた腕は1cmも動かすことができず、術後の痛みから夜寝ることもできませんでした。
リハビリから始まった大学2年生のシーズンは、長期離脱という今まで経験したことない状態に苦しみました。ずっとコートの外にいる自分が、どのようにチームに貢献したらいいか、分かりませんでした。自分ができることは何だろうと考え、私がコートの外で頑張る姿を見て、練習している選手が頑張るきっかけになればいいなという思いで、必死にリハビリに取り組みました。
大学1年生、2年生と2部昇格ができず、3年生になりました。上級生になった私は、もっと頑張らなきゃと、自分自身を勝手に追い込んでいました。脱臼のリハビリの時にはできてた「自分がどうチームに貢献するか」という考えが、その時には「自分がやらなきゃ」、「自分さえ頑張れば」というように変わってしまいました。中学の頃の考えに戻っていました。過剰に自分にプレッシャーをかけ、自分で自分の首を絞めていたからなのか、体に異常が出てきました。円集合では手が震えてしまい、周りの人の視線を余計に感じるようになり、私生活にも影響が出てきました。このような状態でリーグ戦と六大学対抗戦を戦い抜いた私は、心身ともにボロボロになっていました。
これはまずいと思い、部活を長い期間休み、治療に専念しました。最終学年として、チームを引っ張っていく立場でありたかったのですが、自分のことだけを考える期間になりました。
4月末、休み明けに初めて練習に行った日、すぐにチームに馴染むことはできませんでした。みんなは前を向いて進んでいて、自分1人だけ置いてかれていると感じました。
5月には慶関戦がありました。2年生の冬に、25回目にして史上初の勝利を収めた相手に、2大会ぶりに敗北しました。私はその時、全体練習に復帰して間もなく、5on5に混ざり始めて1週間ほどしか経っていませんでした。コーチから、「ユズが出るのは点差がついてから」と言われていたので、試合が始まった頃は、自分の出番はまだこないなと思っていました。しかし、第1クォーター開始8分ほどたった時、コーチから声がかかりました。ベンチにいたチームメイトは無理しないでと言ってくれたのですが、私の足は交代へ向かっていました。何とかしてこのチームの状況を変えたいと思いました。しかし、ほとんど練習をしていない自分のプレーを信じることはできませんでした。そこで、私はコートの中の悪い雰囲気を変えることに努めました。パスが回ってきても完全にフリーでない限り、イチやコトにパスを返し、時計が止まった瞬間、今が自分が頑張る時だと思い、仲間に声をかけ続けていました。結果、13点差で負けました。悔しいという感情以前に、申し訳ないという思いで、涙が止まりませんでした。
何もできない自分を目の当たりにして、もっとみんなに頼らなければいけない、と気がつきました。自分がどうにかしなきゃと考えるのではなく、みんなとどう乗り越えていくかが大切だと考えられるようになりました。さらに、自分の人生のどん底を味わった私は、これからは良くなっていくことしかないと、吹っ切ることができました。少し前向きになり、中学から引きずっていた性格や考えが少し変わった瞬間でした。
4年生、最後のリーグ戦は、3部6位。入れ替え戦まであと一歩のところで負けました。とても悔しかったですが、終わった瞬間、ほっとした自分がいました。4年間2部昇格という目標の中で、緊張感のあるバスケをしてきて、練習中も常にプレッシャーを感じていました。それをもう背負わなくていいのか、と思うと安心しました。
この目標は後輩に託して、これからはOGとして応援していきたいと思います。
最後の六大学対抗戦、4年間の集大成として、コートに立ちました。引退試合の相手は早稲田大学。前半は大差がついてしまいましたが、後半だけの点数を見ると慶應が上回っていました。今まで経験したことがないくらい楽しくプレーができて、4年間やり切ってよかったと思える試合になりました。そう思えたのは、頼れる後輩やいつも助けてくれる同期、声援を送り続けてくれるOB・OG、ご家族の皆様、引退試合にはこれ以上ない相手など、素晴らしい環境があったからだと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。
ここまで、私のバスケ人生について長々と書かせていただきました。楽しかったことなんてほんの少しで、苦しかったり、壁にぶち当たって悩んだりしたことがほとんどでした。大学では、思うようにいかなかった4年間でしたが、そこから学べたことはかけがえのないものであり、人生において大切なものを見つけられた4年間でした。
最後になりますが、この場をお借りして私のバスケ人生に関わってくださった全ての方に感謝申し上げます。ありがとうございました。