我が生涯に -吉岡絢子(学生コーチ)

慶應義塾大学商学部4年ならびに體育會女子バスケットボール部に所属しております吉岡絢子(CN:アヤコ)と申します。宜しくお願いいたします。

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「悔いを残さないのではなく、残った悔いをどう昇華させていくか」

小学生時代、親と喧嘩してお弁当も持たずに家を飛び出し試合に向かったことがあります。心がモヤモヤして、その試合はまるでダメでした。喧嘩してしまったことも、情けなく鳴るお腹を満たす手段が無いことも、気持ちを引きずってバスケットのパフォーマンスに影響させてしまったことも、すべて後悔して、もう一度朝からやり直したいと思っていたら、涙が溢れて止まりませんでした。その時、尊敬する恩師からかけてもらったことばです。当時のわたしは「昇華」の意味すら知らず、家に帰って辞書で調べてもピンとこないような有り様でした。

「悔いの残らないように」

人生において、特にスポーツが絡むと、よく聞くセリフです。わたしの周りでスポーツに邁進している様々な人たちを見ても、やはり原動力のひとつには「後悔をしたくない」という思いがあるようです。

わたしはと言えば、後悔だらけのバスケットボール人生でした。

小学生の時はジャンケンで決まったキャプテンを任されましたが、これといってなんの成果も得られませんでした。中学の時は身長やミニバス時代のアドバンテージから努力を怠って、途中でスタメンを外れてしまい、高校では膝の怪我のためろくにプレーに打ち込むことができませんでした。

大学に入り高校のコーチとしてバスケットボールに携わり続けることを決めましたが、目標を達成できずに敗退したり、または引退させてしまったりするたびに、どうしようもない自責の念に襲われ、たらればで物事を考えてばかりでした。

昨年の7月から、ご縁があってこの体育会バスケットボール部で、学生コーチとしてこのスポーツと向き合ってきました。しかし、ここでも同じく後悔だらけでした。毎日の練習内容や、練習中にプレイヤーに向かって発した一語一句、練習ゲーム中の細かい判断など、もっとこうしておけばよかった、こうするべきだったと後から後からアイディアや発想が溢れてくるのです。

7月から学生コーチとしてチームを支えてきた

練習中のみならず、公式戦という大舞台でも同じくです。リーグ戦では例年通りの形ではありませんが、それでも目標を達成することが出来ました。しかし、試合内容として良いものばかりではありませんでした。自分たちの実力を出し切れなかったり、勝っている試合でアクセルを踏み続けられなかったり、相手の欠員に助けられたこともあり、そのたびにわたしは深く後悔しました。六大学では格上の学校相手にバラエティ豊かな敗北を喫しましたが、もっとうまくできたんじゃないか、体育会のOBOGの方々に対して誠意のある試合ではなかったのではないか、そう考えては枕に突っ伏していました。

4年生の引退試合となった早慶戦。圧倒的な実力差を前にプレイヤーのガッツが光る場面や、ベンチが盛り上がり一体感を見せられた場面がありました。しかし、学生コーチとしては、もっと食らいつきたかったし、もっとプレイヤーの良さを引き出したかった。もっと良いところを応援してくださる方々に見せたかったし、もっと足掻きたかった。そういった後悔ばかりが渦巻きました。

後悔の念が残るも、最後の1秒までチームを鼓舞し続けた彼女

ここまで書いてきたように、わたしは10年を超えるバスケットボール生活において、ほとんど後悔しかしていません。それでも諦め悪く、学生生活最後までバスケットボールに携わり続けた理由はただ一つ、最初に記した恩師のことばがあるからです。もう一度書いても良いですか?

「悔いを残さないのではなく、残った悔いをどう昇華させていくか」

わたしはこのことばと人生の半分以上向き合ってきて、自分なりに咀嚼し、解釈してきました。

「悔い」をまったく残さずに清々しい気持ちで試合を終えたり引退するというのは、全国優勝でもしない限りかなり難しいことだと思います。むしろ、一日一日を悔いなく終えるとか、”試合に負けてしまったけど悔いはありません”とか、わたしにとってそういうのは綺麗ごとのように感じられてしまって、自分の中やチームの中に確かに存在するネガティブで繊細な感情を、無情にも押し殺してしまっているのではないか、とすら思うこともあります。ならばいっそ、後悔をするということは現状に満足せず自らの伸び代を信じられている、という風に開き直って、その自分に対する信頼を結果としてアウトプット出来るようにまたもがき続けるという方が良い。そう言い聞かせてバスケットボールに取り組んできました。文字に起こすと、少し自分に甘い感じもしますよね(笑)。

極論を言えば、わたしは後悔することが好きなのです。成長する余地がまだ残されていると思えるし、自分や仲間に対する期待や希望の証であると思うからです。

部員誰もが彼女の人柄に惹きつけられていた

そして、体育会での5か月間は、今までで一番後悔の多い日々でした。前述したような後悔のみではありませんでした。異例ともいえる時期に体育会に入ったことで、輪を乱してしまったり、悪影響を与えてしまったりしていないか。元々教えていた高校生たちは道半ばで引退し、バスケが出来ていないのに、自分だけ体育会に所属して毎日体育館に通うことが彼女たちに対する裏切りになってしまうのではないか。そういった考えが毎日頭の中を駆け巡り、自らの選択を後悔するたびに、その気持ちを翌日の成長の糧にしようと努力しました。

しかし、そうは言っても簡単なことではありません。後悔するという行為は心を疲弊させ、その沈んだ感情を翌日には原動力に変えていなければいけないので、かなりのエネルギーを必要とし、私一人では到底できない作業です。

ここでようやく、この冗長な文章は月並みな引退ブログに落ち着きます。わたしは心から、同期や後輩、社会人スタッフの方々、支えてくださるOBOGの方々、応援してくれる友人、そして今まで高校で教えてきた高校生、大学生たちに感謝しています。毎日毎日、わたしとバスケットボールに関わる全ての人たちに、後悔の海から救い上げてもらっていました。練習内容やコーチングについて、わたしが後悔するたびに、チームメイトはたくさんのフィードバックをくれました。時には弱さを認めてくれ、時には驕りを咎めてくれました。大人の方々にはたくさんのご指摘やアドバイスを頂きました。友人たちは朝まで電話に付き合ってくれ、叱咤激励してくれました。高校生たちは…彼女たちの存在はそれだけでわたしを奮い立たせてくれました。そして、応援してくださる人たちの熱い気持ちもまた同様でした。

女子高の教え子たちは彼女にとってかけがえのない存在となった

一人では何もできないわたしが何とか毎日悔恨から這い上がり、それを昇華させるべく前を向けたのは、わたし以外のすべての人たちのおかげです。

語弊を承知で言います。たくさん後悔させてくれて本当にありがとうございました。悔やんでも立ち直れる、立ち直らせてくれるという自信が無ければ、後悔することは叶わなかった。そして後悔が無ければ、成長も無かったと思うからです。

後悔してはその原因を探り、突き止め、トライする。ダサくてみっともないかもしれないですが、これがわたしのバスケットボールに対する向き合い方でした。そして、慶應義塾体育会女子バスケットボール部という最高なチームに対する、精いっぱいの向き合い方でした。

最後に、チームメイト、特に同期のみんな、最後の5か月だけという短い期間、仲間としてチームに入れてくれて本当にありがとう。みんながいなければこの貴重で最高で後悔だらけの5か月間は、怠惰で陳腐で何一つ後悔の無いつまらない日々だったと思う。本当に感謝してます。

あ、最後の後悔である早慶戦を昇華させるのは後輩たちに託します。