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卒業ブログ 鳥羽陽介
2019年3月31日 19:00| Comment : 0
題名:大学バスケの挑戦
素晴らしい投稿続で、もう僕の投稿はいらないでしょ(笑)
というのが僕の本心ですが、バスケットバカの支離滅裂な文章に少々お付き合いいただければと思います。
バスケ人生を振り返ると、本当に険しい道のりでした。
そこには様々な挑戦があり、達成できたこと、できなかったことがあります。
大学バスケは僕の中で一つ大きな挑戦でした。
新チームが始まる最初のミーティングでは、「なぜ今僕たちがこのチームにいるのだろうか」という問いから始まりました。
「最大限の努力により最高の結果を出す」ための思考性、行動特性を身に付ける。
これは、慶應義塾体育会バスケットボール部のチーム哲学です。
哲学を辞書で調べると、世界、人生などの根本原理を追及する学問。そして、物事を統一的に把握する理念と出てきます。
つまり我々は、バスケットボールを通じて哲学を体現する学びの集団でなければならないのです。
‘凌峨’
「他のものを越えてそれ以上になること。」
凌駕という言葉には本来このような意味があります。
それに加えて「峨」とは高く険しい山のことを表しており、また「峨」に含まれる「我」は内的自発性の意を含んでいます。
他を上回るだけでなく、自らに険しい目標を課し続け、その度に乗り越えていくという強い意志を込めて。
目標は早慶戦優勝、関東1部リーグ昇格。
これは今年僕たちのチームが掲げたスローガンと目標です。
スローガンはそのチームの色だと僕は考えています。
学びに色を付け、目指す先が目標だと考えます。
このミーティングが終わった時の下級生には、ぜんぜん響いてないな、という印象でした(笑)。
哲学?堅苦しい言葉に耳鳴りがし、当時からしてみたら果てしなく壮大な夢を語っているだけだろ、といったような様子さえ伺えました。
今年のチームは正直期待されていませんでした。
周りからは、「3部との入れ替え戦だけは避けてくれ」といった声まで聞こえるほどでした。
それもそのはず、平均身長180センチにも満たない雑草軍団です。
振り返れば入学後、僕たちの代の初の晴れ舞台である2年春の新人戦では、当時3部リーグ所属の上武大学に惨敗し、先が思いやられる結果でした。
僕は正直悔しくて悔しくて仕方なかったことを鮮明に覚えています。
一方で、どうしたら勝てるのだろうか、そんなところから始まった僕の大学バスケでした。
4年目のシーズン、僕はチームの主将を任されました。
これはすごく光栄なことなのに、プレッシャーの方が先行している自分がいました。
なぜならば、自分たちが取り組んできたことが正解なのかわからなかったからです。
春のトーナメントでは明治大学に敗れ、関西大学との定期戦、韓国の延世大学との定期戦に敗れ、「結果」を出すことができませんでした。
案の定、春の最大の目標である早慶戦では格上の早稲田相手に全く歯が立たず、僕の視界はかすみかけていました。
しかし、周りで下を向いている人は誰一人としていませんでした。
次の日に体育館に行けば、いつも以上に熱心にシューティングに取り組む選手、何がダメでリーグではどうやって戦っていくか話したいと言ってくる学生コーチ、リーグ戦を見据えて、選手のケアをし、ウエイトを教えるトレーナー、夏合宿に向けて準備を進めるマネージャー。
気が付けばみんながチームのために全力で取り組む、本当の意味でのチームになっていました。
僕はプレッシャーなんて感じている暇もなく、自信が沸き上がっていました。
このチームを作ったのは間違いなく部員全員です。
でもそれを牽引し、チームがまとまるきっかけを作ってくれたのは間違いなく僕の同期でした。
みんなのブログを読んでいただいた人にはわかると思いますが、僕の同期は最高で最強です。
チームが勝てないのは自分の責任かのようにひたむきに努力する姿勢がありました。
チームが勝つために必要だと思うことはどんなに言いにくいことでも発言し、受け入れる姿勢がありました。
そして何より、絶対に無理だという言葉を発しない、諦めや妥協しない姿勢がそこにはありました。
まさにチーム哲学を体現し、‘凌峨’しようとする姿勢がそこにはありました。
こうした姿が自然とチームに浸透し、信頼関係を生んでいました。

話を高校生に戻します。
高校3年時に、私は全国制覇を経験しました。
今までに感じたことのない達成感を味わい、自然と大号泣していたのを今でも鮮明に覚えています。
それもそのはず。
全国大会で優勝したい。
そんな単純な思いから15歳という年齢で地元の静岡を離れ、福岡県の強豪校である大濠高校に進学をするという決断をしたからです。
(今思うと、こんな大きな決断をするのに全く迷いもしなかった自分を恐ろしく思う時がありますが。笑)
大学はというもの、最終結果は、早慶戦敗退、関東2部リーグ5位。
目標であった早慶戦優勝、関東1部リーグ昇格にあと一歩及ばず。
正直おもい描いていた大学バスケ生活とはかけ離れていました。
しかし、リーグ戦最終日、順天堂大学との1戦を制した後に、僕は大号泣していました。
その涙は全国優勝と匹敵するほど、いや、それ以上のものだったかもしれません。
やってきたことはすごく単純です。
「最大限の努力によって最高の結果を出す」こと。
自分たちが追い求めていたものが形になった瞬間であり、そこには素晴らしい景色が広がっていました。
この一枚の写真がすべてを物語っている気がします。

僕はこのチームに主将として携わることができたことを心から誇りに思います。
僕が主将としてしたことなんて特別あるわけではありません。
ただ、このチームで勝ちたい。
その一心でした。
そう思わせてくれたのは、僕の同期をはじめとしたこのチームです。
僕は大学バスケを通じて、結果以上に大事なものを得ることができました。
こんな素晴らしい経験をさせてくれたこのチームに感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとう。
11月3日に予期せぬ形で大学バスケ引退を告げられた僕は、その後、果てしない無気力感に襲われていました。
現役当時82kgあった体重はわずか2週間で76kgまで落ち込み、気づけば私生活は崩壊していました。
やっぱりバスケが僕の生活を支えていたんだなと気が付く一方で、もうバスケはいいかなと思う自分もいました。
なぜかというと、バスケを通じて壁にぶち当たりすぎて、正直疲弊しきっていたからです。
小学校1年生から16年間バスケをし続けてきた僕にとって、バスケをすることは半分「当たり前」で、もういいかなと思っている自分にびっくりしていました。
しかし、バスケを離れて生活してみると、どこかもの足りない。
「疲れたな」と思う気持ちは本気でやっていたから思う事でもあるのかなと。
そして、「物足りないな」と思う気持ちこそ、バスケが僕を成長させてくれた証であり、僕の人間としての伸びしろなのかなとも思います。
僕もまだまだこれから様々なことに挑戦し、もっと大きい人間になろうと思います。
体育会は、学校に通っているだけでは教えてくれない「学び」を得ることができる環境です。
大学で何をやろうかなと悩んでいる人は、学びのツールとして考えてみてください。
一生役立つ財産を手に入れることができるはずです。
卒業ブログ 原 匠
2019年3月29日 19:00| Comment : 0
題名:感謝
副将を務めさせていただいておりました原匠です。
同期のブログを読んでいると、あたりまえのことですがひとりひとりにそれぞれのエピソードがあり、間近で見てきた私も思わず心打たれる部分が多かったです。
そんな中のひとりとして、慶應での大学生活を振り返りつつ感じたことを伝えられたらと思います。
私は大阪府の近畿大学附属高等学校の出身で、AO入試での受験を通過し慶應義塾大学に入学しました。
なぜ慶應を受験することにしたのか、それは正直に言うとたまたまです。
ある日の昼休みに部活動の顧問の先生に職員室に呼び出され、「慶應受けてみやん?」と突然言われ、「慶應ってあの慶應ですか?またまた〜。(笑)」などと笑いながら話していたことがもう4年も前のことだと思うと時の流れの早さを感じます。
しかし、この一言がきっかけで私は慶應義塾の門を叩くことになったのです。
高校時代、嬉しいことに私は入学当初からレギュラーとして試合に出場させていただき、入学して約1ヶ月後には大阪予選を勝ち抜き、インターハイの出場権を獲得、冬に行われるウインターカップの予選でも大阪予選を勝ち抜き、全国大会の出場権を獲得しました。
あまりにもトントン拍子で物事が進んでいき、私は意外とあっさりいけるものなのだなと思っていました。
はい、もちろん浅はかすぎる考えでした。(笑)
2年時の予選は夏も冬もベスト16で敗退、自分たちの甘さを痛感しました。
3年時、主将を務めさせていただき、昨年の反省を生かし、チームメイトと日々切磋琢磨しながら練習に取り組みましたが、結果は3位とあと一歩のところで全国大会出場は叶いませんでした。
成功を経験し、挫折を経験し、そこからどうすれば這い上がれるのかを考える。
その一連のプロセスをいいバランスで経験できた高校生活だったのではないかなと、今では思います。
そんなこんなで大学に入学したわけですが、入学後、すぐに壁にぶち当たりました。
当時関東一部リーグに所属し、高校時代から全国トップレベルで戦ってきた先輩方にどう対抗していこうかと期待と不安を胸に入部したものの、圧倒的に実力が足りておらず、待っていたのは、全体アップを行なった後は練習メニューにすら入ることが出来ず、コートサイドで雑巾係をするという日々でした。
同期の陽介や澤近が新たな環境で先輩に食らいつきながら、コート上でどんどん成長していく姿をコートの外で見ることは僕にとってはまさに地獄のような時間でした。
「自分は何をやっているんだろう。」
高校時代の挫折なんて挫折でもなんでもなかったんだなと思うほど、圧倒的な挫折感を味わい、この先どうなっていくのかと不安だけが大きくなっていきました。
しかし、そんな自分を気にかけて下さる先輩方に前を向かせてもらいました。
練習前後での会話や、プライベートでの会話など、様々な話を聞き、今の環境で何が出来るか、自分に足りないものは何か、どうすれば試合に出ることが出来るのか、そんなことを考えながら自主練に励みスキルアップを実感していく日々は充実そのものでした。
特に高校時代から課題に感じていた3Pシュートの部分についてはかなりこだわりを持つようになり、打つ本数だけでなく、指のかかり方、ミートの仕方、力の伝え方などといった部分についても試行錯誤を繰り返し、毎回考えながら練習を行いました。
その成果が目に見えて、出た頃から少しずつチャンスをもらえるようになり、2年の早慶戦でほんの数分でしたが初めてAチームの公式戦に出た時のことは今でも覚えています。
満員の代々木第二体育館、常に鳴り響く歓声、ただ、試合に出る瞬間はそれほどうるさく聞こえないあの不思議な感覚(おそらく緊張してただけ)。
そんな中、たった1本のシュートチャンスでしたが、1年間磨き続けた3pシュートを決められたこと、その1本のシュートを自分ごとのように喜んでくれる仲間がいたことがどれだけ次にステップアップしていくためのモチベーションへと繋がったことか。
挫折体験ももちろんではあるけど、やはり成功体験や達成感が自分のモチベーションを最大限に引き上げてくれるんだなということを実感すると共に、チームスポーツの素晴らしさを改めて感じた経験でもありました。

その後、プレータイムは伸びていったものの、2年から3年の時期はチームとしてなかなか結果を残すことが出来ず、苦しい時期が続きました。
何がダメなのか、どうすれば勝てるのか、それぞれが考え試行錯誤を繰り返しながら練習に取り組んでいるのに、結果はついてこない。
何が正解なのかもわからず、チーム内では様々な方向への不信感が漂っていていましたが、そんな中でも勝つためにもがき続ける先輩についていくしかないととにかく必死に走り続けていた日々でした。
今思うとあの時期はバスケを楽しむことすら出来ていなかったような気がします。
なんとか2部に残留し、始まったラストシーズン。
昨年度までの反省を生かし、チームを足元から見直していこうと何度もミーティングを重ね活動する日々でしたが、どこか自分の中では本当にこれでいいのかという違和感が付きまとい続けていました。
誰よりもチームを変えたい、勝ちたいという思いが強い同期が必死に頑張っている中でこんな思いを抱きながら活動を続ける自分が本当に嫌いで、でもその思いをなかなか打ち明けることも出来ず、耐えきれなくなった私は一度チームから離れ、自らの責任を放棄してしまいました。
あれほど練習に行くことが恐いと思ったことは後にも先にもこの時だけだったと思います。
ただ、そういった環境から逃げた先に待っていたのはそれ以上に苦しい日々でした。
目の前が真っ暗で、希望の光なんてどこにもなくて、これまでの生活に戻ることなんてもう出来ないだろうなと本気で思っていました。
ただ、そんな私を救ってくれたのも同期をはじめ、スタッフの方々や家族、チームのみんなでした。
こんな私のことを見捨てることなく、常に側に寄り添い、もう一度チームの一員として戦うチャンスをくれました。
人生で1番辛かった時期にそういった人々の支えがあったからこそ、自分は今こうして、卒業ブログを書くことが出来ているのだと思います。
特に同期には感謝してもしきれません。
私の同期は本当に凄いやつらです。
損得勘定抜きでこれだけ人に寄り添える人間を見たことがないです。
ありがとうなんて言葉じゃ物足りないけどあえて言わせてもらいます。
本当にありがとう。
ラストシーズンも目に見えた結果が得られたわけではありませんでしたが、そういった結果以上に大切なものを得ることができた4年間でした。
下級生に対しては、最上級生ひとりひとりがそれぞれの個性を出して、闘う姿というものを見せることが出来たのではないかなと思います。
私たちの代では成し得なかった1部昇格という目標を後輩が達成できるよう、OBという立場になりますが今まで同様、応援しながらも共に戦っていきたいと思います。
最後になりますが、この4年間、良い時も悪い時も常に支え、応援してくださったOBの先輩方をはじめ、保護者の方々や関係者の皆さまのおかげで、かけがえのない青春時代を過ごすことが出来ました。
この4年間の出会い、出来事すべてが私の誇りです。
本当にありがとうございました。
これからの後輩たちへ、この大学4年間の生活をバスケに捧げて卒業した今、確信を持って伝えたいことは、それだけの価値がこの組織にはあるということです。
やりたいこと、学びたいことがあれば何でもできる大学という環境には、もちろん他の選択肢もたくさんあると思います。
しかし、何かに没頭して、同じ目標に向かって本気でぶつかり合えるような組織はどこにでもあるものではないです。
高校で部活動は終わり、というような風潮が軽く漂っている状況ではありますが、皆さんの大学生活をより良いものとするための1つの選択肢として慶應義塾大学体育会バスケットボール部への入部を検討してもらえればなと思います。
色々と偉そうなことを言ってはいますが、好きでやっているバスケットボール、まあ、楽しんでください。
全体的にお堅い偉そうな文章になっていたので、最後の一言くらいは私らしい緩めの言葉をエールとして送らせていただきたいと思います。
慶應義塾大学体育会バスケットボール部副将 原匠

卒業ブログ 澤近 智也
2019年3月28日 19:00| Comment : 0
題名:中途半端になるな、最後までやり抜け
まず始めに、僕自身話したり、文章を書いたりするのは得意ではないので、もちろん真面目に書かせていただきますが、まとまりのないブログになるかもしれません。
ご了承ください。
先日、野球ファンでなくとも誰もが知ってるであろうシアトル・マリナーズのイチロー選手が引退しました。
僕は正直野球のことは全く分からないですし、球場でプロ野球を見たことはないですが、イチロー選手はさすがに知っています。
夜中12時くらいに引退会見をやるという情報が流れてきたので、少し見てから寝ようと思っていたのですが、気づいたら最後まで見入っていました。
その会見の中で、印象に残っていることがいくつかあったのですが、1つピックアップします。
それは記者から
「野球人生でイチロー選手が貫いたもの、貫けたものはなんでしょうか。」
という質問に対して、イチロー選手が
「野球のことを愛したことだと思います。これは変わることがなかったですね。」と答えていたことです。
この言葉を聞いて、すぐさま自分自身と重ね合わせてしまいました。
イチロー選手の野球人生に比べたら僕のバスケットボール人生なんてちっぽけなもので、比べるものではないと思いますが、僕も同じように去年11月に引退するまで約13年間バスケットボールを続けてきました。
楽しいことばかりじゃなく、辛くて、しんどいことのほうが多かった中で、なんで自分がここまで続けてこれたかというと、もちろん家族、同期、その他周りの環境に恵まれていたことはあると思いますが、それ以上にバスケットボールのことが心の底から好きだったからだと思いました。
今までの人生を振り返ると、こんなにも情熱を注いで本気になれたものはバスケットボールしかなくて、他に何か取り組んできたものはあるかと聞かれると胸を張ってこれですと言えるものはないです。
しかし、バスケットボールに関しては本気になって向き合うことができました。なぜかと言うと、本当に心の底から好きだったから。
それでは本題に入ります。
題名にある「中途半端になるな、最後までやり抜け」と言う言葉は、僕が常に大切にしている言葉です。
中途半端になるな、とか最後までやり抜け、とか意識しないで当たり前のようにできるようになることがベストなんだと思いますが、僕自身そこまで辿り着けていなかったため、常に意識できるよう、いつでも見られるように、紙に書いて部屋の壁に貼っていました。
僕は、何かに取り組んでる時に中途半端になってしまうと、他の事に対しても中途半端になってしまう性格だと自分自身で分かっているので、何か物事に取り組む時は常に全力で最後までやり抜くし、休む時は休むということを常々意識して生活しています。
中途半端って何にも良いことは生まれませんからね。
そんな僕が特に最後までやり抜いたことは、自分の役割を全うし、チームに貢献することでした。
僕が担っていたポジションは比較的バスケットリングの近くでプレーするセンターというポジションでした。
僕の身長(185センチ)でこのポジションをしている選手は他のチームにあまりいなく、毎回試合をする時に僕よりも身長が10センチ、20センチ高い選手とマッチアップしていました。
時には留学生とマッチアップすることもあります。
僕は身長が大きい訳でもないし、ジャンプ力があるわけでもないので、高さで勝負することはできませんでした。
高さがないのとジャンプ力がないのを象徴するかのように、リーグ戦21試合を通して、試合の初めにあるジャンプボールでボールに触れることは一度もできませんでした。
別に手を抜いていたとかではないんです。
毎回全力で飛んで、マイボールにしようと必死でした笑
だけどボールには触れなかったです。
だから毎試合ディフェンスから試合が始まっていました。
それは置いといて、
どうすれば身長で勝る相手と勝負できるのかなと考えていた時期に、テレビを見ていたら、
「今でしょ。」でお馴染みの林修先生がこんなことをおっしゃっていました。
「勝てる場所で誰よりも努力する。」
僕はこの言葉を聞いた時に、自分自身に当てはめて考えた結果、思い浮かんだのはただ1つでした。
それはフィジカルで勝負するということ。
高さでは勝てないけど、フィジカル面でなら勝てると考え、より一層筋力トレーニングに励みました。
コンビニでTarzanという雑誌を読んだり、時にはネットで調べたり、色々筋肉についての勉強もしていました。
勉強していく中で、1日に必要なタンパク質の摂取量(僕なら170〜180gくらい)を知ったその日からタンパク質摂取生活が始まります。
3食とは別に、1日プロテインを3杯以上飲み、コンビニで売っている1つあたりタンパク質が20数g入っているサラダチキンを2.3つ食べていました。
本当は他の栄養素(炭水化物とか脂質とか)も1日にどの位取る必要があるのかはあったんですが、とりあえずタンパク質にフォーカスしてやっていました。
正直身体には良くないとは思いますが、、、、、
とりあえずやってみました。
すぐには結果は出ないですが、地道な努力こそ最大の近道ですから、継続してやっていました。
その結果、4年生の時には最大185センチ90キロと入学当時に比べて10キロ以上の増量し、リーグ戦ではセンターポジションとして戦えるところまで成長することができました。

一人一人得意不得意がある。
だから、これなら誰にも負けないというところを見つけて、誰よりも努力する。
それが勝つための最大の法則なんだなと思いました。
これは別に部活動に限ったことではないと思います。社会に出てからも自分自身が勝てる場所を探して、そこで最大限努力する。これが大事なんだと思います。
読み返すとESみたいになってますね。
最後に、1つ言いたいことがあります。
同期のことは大切にしてください。

4年間の大学生活で1番一緒に過ごした仲間です。
直接言うのはちょっと恥ずかしいので、ここで書かせてもらいます。
先述したようにバスケットボールが好きだったからと同様に
彼らがいたからここまで来れました。
当然ぶつかることもありましたが、それはお互いがお互いのことを本気で思っているからです。
社会人になれば、各々別々の道へ進みますが、すぐに集まって酒を交わしながら、思い出話に花を咲かせていると思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これを読んで少しでも何か感じ取ってくれたら嬉しいです。
卒業ブログ 吉敷 秀太
2019年3月27日 19:00| Comment : 0
題名:同期に恵まれた七年間
ページを開いて頂きありがとうございます。
僕は慶應義塾體育會バスケットボール部4年生(2018年度)の吉敷秀太と申します。
部では選手として活動し、背番号は8番、出身校は慶應義塾志木高等学校(名門)、得意なプレーはリバウンド、ポジションは最早自分でもよくわかりません。
SNS等でキャッチコピーをもらうときは、「Mrストイック」や「慶應のバスケを体現する男」という、初めて見る方には分かりにくい二つ名をもらいがちです。
これを読んでいる方は、「特に褒めるところないから適当に名付けたんじゃないの?」と思われないか心配です。
卒業間近になった今振り返ると、このように呼ばれていたことはとても恐れ多いことでもあり、同時に僕の誇りでもあります。
今回はそんな僕と、僕の仲間のことを振り返ります。最後までお付き合い頂けると幸いです。
僕は一貫校生なので、話は高校生編からスタートします。
僕のプレースタイルのルーツは間違いなく慶應志木にあります。
全員で取り組むディフェンスやリバウンドやルーズボールを土台に、各々が得意分野を発揮して勝つのが慶應志木のスタイルです。
このスタイルによって毎年尖った個性を持つ選手が育ちがちでとても面白いチームだと思います。
僕の同期にも、フックシュートだけやたら上手い、ハイポストのシュートだけなぜか入る、ディナイが気持ち悪いくらいしつこい等々、おかしな成長を遂げた選手が溢れていました。
例に漏れず、僕もポストプレーで得点を取る170㎝のセンターへとおかしな成長を遂げました。
小さいのにセンターのプレーにばかり時間を使っていたので、今でも育成ミスだと周りから冗談で馬鹿にされます。
確かに大学では、ほとんどポストプレーはしませんし、その練習自体はつながっておらず、育成ミスかもしれません。
しかし技術を身につけるために考えて努力する能力、自分より大きい相手とぶつかっても怯まない闘争心を得られたことは間違いなく大学でも大きな財産になりました。
ここまでの文章を読んで、慶應志木をただの癖の強いプレイヤーが集まったチームだと思うかもしれませんが、それだけではありません。
慶應志木は他のどの高校よりも勤勉にディフェンスやリバウンドを行うチームです。
高校時代に対戦したどのチームよりも慶應志木はこれらが徹底されていました。
試合であれ練習であれ、試合に出る選手であれ出ない選手であれ全員が死ぬ気で一つのボールを追いかけます。
たまにラグビーボールも追いかけます。(ボールへ飛び込む練習です。)
「試合に出ない選手が必死にボールを追いかけているのに、試合に出る自分がボールを追いかけない訳にはいかない」、僕のリバウンドがここまで上達したのは、こんなポジティブなプレッシャーによるところが大きいと思っています。
チームメイトの熱意があったからこそ、自分も負けまいと必死になることが出来たのです。
このようなチームでのプレーが僕のバスケットボールの土台になっているので慶應志木には本当に感謝しています。

そんな真面目なのかヤンチャなのか分からない高校での最後の大会は、周囲の予想に反し県でベスト4まで勝ち上がることができ、有終の美を飾り引退しました。
あまりにうまいこと勝ち上がれてしまったことにより、大学の體育會でもプレーできるかもしれないと思いあがったため、話は大学編へと突入します。今しばらくお付き合いください。
皆さんは大学の體育會と聞いてどのような印象を受けるでしょう。
上下関係が厳しい、先輩が怖い、入部するのにテストがある等々、色々な想像をすると思いますがそれは違います。
體育會バスケットボール部の門は誰にでも開かれています。
しかし部に入ったからには守らなければならない哲学があります。
「最大限の努力によって最高の結果を出す」
この哲学に沿ってチャレンジできる人間の集団が體育會バスケットボール部です。
大学の僕の同期はバスケットボールに対して超が付くほど真面目です。
プライベートの彼らをご存知の方は信じないかもしれませんが、バスケットボールに対しては真面目です。
そんな真面目な彼らがいたからこそ自分も4年間頑張ってこられたと思っています。
真面目というのは努力が出来るというだけでなく、本当にチームに必要なものを追求できるという意味です。
要するにミーティングでは厳しいことも結構言い合います。
しかし自分はその厳しさに大いに助けられたと思っています。
大学に入学したばかりの僕は、全体練習に参加すらできませんでした。
それは単純に僕が下手だったからです。
上手い先輩方のプレーを見て、日々自主練習を重ねましたが、正直言って当時の僕は最終的にプレーでチームに貢献できるレベルに到達できるのか不安でした。
早めにスタッフに転向した方がいいのではないかと考えたこともありました。
そんな不安を払拭してくれたのが同期でした。
彼らはバスケットに関して取り繕ったことは言いません。
僕が本当にスタッフに転向した方がチームのためだと感じたら正直に伝えてくれます。
僕のプレーが良くなかったら間違いなく指摘してきます。
特に同期の学生コーチにはよく怒られました。
そんな同期が僕に対してあらゆる要求をしてくるは、選手としての僕に、もっと活躍できるはずだ、という良い意味でのプレッシャーを与えてくれたのだと感じています。
だから同期にはとても感謝しています。
前述したように、僕は周囲からストイックや真面目と言われてきました。
しかしそれは少し違います。
正確には僕だけの力で、周りからストイックと言われるほど努力ができたのではありません。
僕の同期は全員僕より上手でした。
それでいて彼らは、僕のバスケット人生の中で最も上達にどん欲なチームメイトでした。
「自分より上手い選手が努力しているのだから、せめて彼らよりも努力したい」と、彼らの意識の高さに引っ張られるように、自分も負けじと努力したのです。
周りからストイックと呼ばれた僕ですが、そんな僕を作ってくれたのは間違いなく僕にたくさんの刺激を与えてくれた同期です。
引退した今思うことは、僕のバスケットに対する姿勢が、少しでもチームメイトに良い刺激を与えられていたのなら本当に喜ばしいということです。

ここまで僕と僕のチームメイトを、高校と大学に分けて振り返ってきましたが、僕が慶應でバスケットボールに打ち込んで、ここまで充実した生活を送ることが出来たのは間違いなく仲間たちのおかげです。
彼らは僕に責任感や自信など多くのものを与えてくれました。
また僕が彼らに与えたものもきっとあったはずだと信じています。
皆さんには本当に信頼している仲間はいるでしょうか。
自分のことを思い、時には厳しいことも言ってくれる、自分と切磋琢磨してくれる真の仲間はいるでしょうか。
僕はお世辞にも友達が多い方とは言えませんが、このような仲間を手に入れたことは自信をもって誇ることが出来ます。
小泉信三先生は、スポーツが与えてくれる三つの宝の一つに、「生涯の友」を挙げています。
慶應でのバスケットボールは間違いなく僕にそれを与えてくれました。
本当にこの学校でバスケットボールに取り組んで良かったと感じています。
大学で何に打ち込もうか考えている方、そもそもどこの高校・大学に進もうか考えている方、慶應でバスケットボールに取り組むのはいかがでしょうか。
きっと生涯の友が手に入るはずです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。

卒業ブログ 小原 陸
2019年3月26日 19:00| Comment : 0
題名:大学バスケットボールを振り返って
突然ではありますが、感謝からこのブログを始めさせてください。
僕は最高の同期に囲まれたおかげで、笑って卒業することができるのだと思っています。
勿論同期だけでなく、先輩や後輩、OBやスタッフの方々にもたくさん支えて頂き、感謝の言葉は尽きません。
しかし、一番つらい時期を乗り越えられたのは、この6人がいてくれたからであると思っています。
普段は照れ臭くて絶対に言えませんし、この先も直接言う予定はないので、この場を借りて一人ずつ気持ちを伝えたいと思います。
鳥羽は何に対しても真面目で、熱心で、努力家で、誰が見ても「キャプテン」にふさわしい選手でした。
シュート力からディフェンス力、バスケIQとどれをとっても流石の一言で、最初見たときは同級生ながら憧れました。
一年生から試合に出場し、結果を出し続ける姿は、ベンチで見ているしかできなかった僕を何度も奮い立たせ、体育館に足を運ばせました。
普段の練習では、なぜかマッチアップをすることが多く、練習中何度もカモにされました。
しかし鳥羽のおかげで並のディフェンスは怖くなくなりました。
鳥羽のおかげでレベルアップできたといっても過言ではありません。
ありがとう。
原はチーム一のムードメイカーであり、どんな暗い雰囲気の時も、笑顔や言葉一つで吹き飛ばす力を持った、とても頼もしい副将でした。
最初は僕と同じようにコートサイドから練習を見ることしかできないところからスタートしたのにも関わらず、正確無比な3Pシュートとセンス光るプレーの数々で、瞬く間にチームを代表するガードになっていました。
勿論悔しかったのですが、結果を出して試合に定着するということを実践してくれたので、とても尊敬していました。
また「絶対に負けたくない」と思って努力し続ける原動力にもなっていました。ありがとう。
澤近は誕生日が同じだったり、合宿の部屋が何度も同じだったりと何かと縁がありました。
最初は標準語がしゃべれず、練習中にも方言を全開にしていた澤近。
息が切れているときに話しかけられても何を言っているのか理解できないことがよくありました。
研究熱心で闘争心が強く、四年生になるとどんな選手にも当たり負けしない強靭な体を手に入れていました。
澤近の放つミドルシュートへの信頼は絶大で、何度もチームは救われました。
また、澤近のおかげでアシストが増えたのでとても感謝しています。ありがとう。
小川はチームで一番の努力家で、いろいろな立場を経験しながらも、それぞれの場所でできることに全て取り組む、妥協のない男でした。
そして何より、バスケットボールが大好きでした。
選手の時代は誰よりも長い時間コートにいて練習し、トレーニングに励んでいました。
その姿を見て、生半可な努力しかしない中途半端な選手でいるのは失礼だと思ったし、「選手として試合に臨む」ということは「コートに立てない人の分の想いを背負う」ということだと強く実感しました。
学生コーチになってからも、きっと想像を絶する量の勉強をしたのだと思います。
小川が色々アドバイスをくれたおかげで、試合で貢献できる選手になることができました。
ありがとう。
宇野はチームでのおちゃらけ担当で、笑いが起こっているところに行くと大体彼の姿がありました。
楽しいことが大好きで、何度笑わせてもらったか、苦しく、悩んでいるときに何度助けてもらったかわかりません。
常に周囲に気を配り、怒られないギリギリを歩く。
どんなにむかつくことをされてもなんだか憎むことのできない、愛されるキャラクターでした。発想が天才的で、さまざまなイベントを成功に導き、チームを盛り上げてくれました。
最後まで笑いの絶えないチームだったのは宇野の功績が一番大きいと思っています。
ありがとう。
吉敷はチーム一のストイックで、誰よりも自分に厳しく、高校から七年間一緒にいて弱音は一切聞いたことがありません。
誰よりも泥臭く、人が少しでもさぼってしまうことを徹底して全力で取り組み続けることができる男です。
不運にも怪我もあり、出場機会にはなかなか恵まれませんでしたが、四年間腐らずに努力を積み上げ続けた結果、最後のリーグ戦で圧倒的ブレイクを果たしました。
吉敷と大学という舞台で再びスターティングメンバーとしてコートに立つことができたときは、とてもこみ上げるものがありました。
同じBチームで練習してきて、実際に口にしたわけではありませんが苦しさや葛藤、辛さを分かち合うことができたからこそ最後まで全力で走りぬくことができたのだと思っています。
ありがとう。

僕は高校を引退するときには体育会に挑戦することを決めていました。
国体に選ばれるような選手でもなければ、全国大会に出場したこともなく、四年間試合に出られない可能性が高いことはわかっていました。
しかし、どんなにバスケットボールがしたくても、全力で取り組むことができるのは大学の四年間しかないと思うと、六歳から続けてきた集大成として挑戦しない選択肢は僕にはありませんでした。
いざ入部してみると想像していたよりも何倍もレベルが高く、驚愕することばかりでした。
フィジカルの強さも、シュートの確率も、ドリブルの上手さも、パスの多彩さも全てが何段階も上でした。
驚きはしましたが、後悔や諦めはなく、その時に抱いたのは「どうやって少しでも追いつくか」というわくわく感でした。
最初は練習すら参加できないところから始まりました。
空いている時間に体育館に足を運んでシュート練習をし、練習中はコート外から一つでも何か得られることがないか探すことに徹しました。
少しずつできることを増やし、自分が少しでも貢献できる強みは何かを考えてその点を強化しながらアピールしました。
その甲斐あってか、二年生の秋リーグから、少しではありますが出場時間をもらうことができました。
しかしコートに立っても思うようなプレーができませんでした。
思い切ってプレーをすればいいのに、ミスを恐れて全てが中途半端になっていました。
鳥羽や原、澤近に加え、山崎高田という下級生のメンバーも試合でしっかりと結果を残すのを見て、悔しくて仕方ありませんでした。
それと同時に「負けてられない」と、さらに練習に熱を入れるようになりました。
しかし、この頃辺りからだんだんと膝が痛むようになってきました。
筋や骨に異常があるのではなく、慢性的な疲労や筋肉の硬さからくるもので、一気に治るものではありませんでした。
休んでいれば痛みが出なくなるという保証はなく、根本を解決しなければまた発症するものでした。
もっと試合にでたい。
でも練習すればするほど痛みは強くなる。
僕が一番つらかったのは、この膝の怪我で頑張りたくても頑張れないジレンマに陥ってしまったことです。
練習が終わってアイシングしなければ腫れはひかない。
しかし完全にクールダウンしてしまうと痛みで思うように体が動かない。
トレーニングでも追い込めない。
焦りと不安ばかりが募っていきました。
そして、なにより嫌だったのが自分の言い訳に膝の怪我がよぎってしまうことでした。
「試合に出られなくても膝の怪我があるから仕方ない」
「思うようにプレーできないのは膝の怪我のせいだ」
心から前を向き、考えながら努力をしなければ上手くなれないことはわかっているはずなのに、一番嫌いな「自分に甘い言い訳」が何度も出そうになりました。
それを払拭するように練習に打ち込もうとするとさらに膝の痛みが増す。
どうすればいいか分からず、夜も中々寝付けなくなったのを覚えています。
そんな中で、やはり前を向かせてくれたのは同期でした。
僕の同期は本当に全員尊敬できる人でした。
絶対に音を上げず、どんなに辛く大変な状況でも努力で乗り越えてしまう精神力をもっていました。
その姿を近くで見て、心が折れそうになっても最後まで前を向き続けることができました。
一人でも適当に物事を済ませてしまうような奴がいたら、僕は胸を張って「頑張った」と言い切ることはできなかったと思います。
全国大会を経験したことのない僕にとって、全国から有名な選手が集まってくる体育会という舞台でプレーすることは憧れであり、バスケット人生最大の挑戦でした。
入部前から「絶対に諦めない」と覚悟を決めて飛び込みました。
辛く、苦しいことはたくさんありましたが、毎日何かに挑戦、失敗し、成長を実感できる環境で過ごすことができて、本当に充実した日々を過ごすことができました。
同じ志を持った人が集まる集団で、かつ心の底から覚悟を決めていたからこそ、最後には憧れの舞台で貢献できるような選手になることができたのだと思っています。
大学の四年間は本当にたくさんの選択肢があり、色々な経験ができる機会が転がっています。
僕は四年間をバスケットボールの集大成としてやり切ると決めて臨み、多くの経験と生涯の友を得ることができました。
四年間は長いようで、本当に短いです。
自信がある、ないで判断するのではなく、自分が真にやりたいことは何なのかを自分に問いかけ、覚悟を決めて挑戦してみてください。

卒業ブログ 小川 翔平
2019年3月20日 19:00| Comment : 0
題名:「自分のために」より「チームのために」の方が、自分のため
このブログは、「個人の時代到来」というニュースが流れまくる昨今を、「自分の利益になるか」を最優先に生きてきた私が、チームの中で自己犠牲を習得したように見せかけて、実は「自分の利益になること」をしていました、という物語です。
併せて、個人、個人、と言われる時代ですが、「チーム」でしか成し得ないことがあるということをお伝えできればと思います。
早速ですが、私はちょうど今から四年前に體育會バスケットボール部の門を叩きました。
当時は関東一部リーグに所属し、先輩方も強豪校出身の方ばかりでその門は凄く大きく重そうでしたが、叩いてみると拍子抜けするくらいにすぐ開いたのです。先輩も同期もとてもフレンドリーな人たちで、驚きました。
チームには自分よりも上手い人しかおらず、大好きなバスケットボールのためにどこまで追い込んでも十分とは言えない環境だったので毎日が楽しかったです。さらに、一緒にシューティングやウェイトをするのは高校時代に全国制覇を成し遂げた鳥羽。
努力の量と質には刺激を受ける日々でしたし、見ること聞くこと全てに感心していました。
しかし、しばらくして私にとっての第一の転機が訪れます。
「スタッフ」という議題が同期ミーティングで挙がるようになったのです。
同期には、鳥羽、原、澤近、小原、吉敷、宇野(スタッフ)がいて、実力的に見て私のためにあるようなミーティングでした。
そのミーティングは一年生の夏から、二年生の春まで、約半年間、毎週開かれ、私の言い分としては「誰よりも努力している自分がなぜ?」というもの。
今考えると、努力量なんて比べられるものではないし、比べられたとしても同期全員が私と同じくらい努力していました。
しかし、当時はどうしても選手をやめたくなかった。
「下手くそから全国レベルの試合に出る」という壮大な物語のためならどこまでも頑張れたし楽しかったから。
ミーティングが開かれるようになってからのBチーム練を見ていた鳥羽から「お前、ドリブル上手くなったね」と言われた時、本当に嬉しかったのを覚えています。
そんな風に、同期も先輩も、選手として精一杯努力する私のことを可愛がってくれたし、応援もしてくれていました。
でも、実力的にスタッフとして役割を見つけて貢献すべきなのは明白で、先輩も同期も複雑な心境だったと思います。
バスケットボール中心に回っていた人生だったから、選手をやめることは本当に嫌だったけれども、どこまでも寄り添ってくれるチームメイトをこれ以上、困らせるのも裏切るのも嫌だと思いスタッフになることを決めました。
でも、この時の心境はまだ”自己犠牲”。
「自分のためではないけど、皆のために練習の時間は捧げて、他の時間で好きなことをやろう。」と考え、降ってきた仕事はやるけど、プラスαはやらない。
練習が終わった後の、スタバス(スタッフがバスケットボールを楽しむ時間)に全力を傾けるようなタイプでした。
役割が増える事を最も避け、「仕事はやっているんだから良いだろ」という人です。
でもさすがのダメスタッフも、上級生になるタイミングでは「あれ、自分には余力があるぞ?選手は役割を果たすために身も心も注いでいるのに、スタバスばかりやってていいのか?みんなを裏切ってないか?」という考えが頭の中に出てくるようになりました。
そうして、身も心も注ぐようになり役割も増えスタッフらしくなってきて迎えた、三年時の早慶戦。
そこで、第二の転機が訪れます。
4連覇がかかる大一番で、敗北を喫した際に、チームを最後まで引っ張った同期の原が「すまん」と涙を流しながら謝ってきたのです。
その瞬間、「俺は何をしてるんだ。選手はこんな自分の分まで背負ってプレーしているのに。」という想いが溢れてきて、これ以上ないほどに情けなくなりました。
試合の勝敗に直接責任を持つことはできない。
ならせめて、責任を持つ選手が誇りと自信を胸にコートに立てるようなサポートをするのがスタッフとしての役割だろ、と考えるようになったのです。

誇りと自信。
この二つを選手に持たせることが私の役割。
どんな試合でも、見に来てくれる人が多いと気合が入ります。
Bリーグが発足してからBリーガーのモチベーションもかなり上がっているそうです。
私たちもスタジアムが満員になる早慶戦に最も気合が入ります。
伝統的で大事な試合という面も、もちろんですが「がんばれ!」という言葉を試合前や試合中にかけてもらえるのは本当に嬉しいし、「あの試合、見たよ!すごかった!」と言われれば、涙が出そうになります。
注目度が上がれば、感動は大きくなるし、より誇りを持って試合に臨めると思うのです。
選手側だけでなく、練習から試合まで自分たちの可能性を諦めずに努力する最高で感動的なチームがあるならば、多くの人が見たいはずです。
SNSでの広報活動やや早慶戦を始めとするイベント企画にはそんな想いを持っていました。
注目度が上がるとさらに重要さを増すのが自信の部分。
「多くの人が見ている前で情けない試合はしたくない。勝ちたい。」と思うようになっても、自信がなければそれは恐怖に変わってしまいます。
そんな自信をつけるために何をすればいいかは明白でした。
昔から同期と話していると練習内容やチーム内のコミュニケーションなどに不満が出ていたのです。
「この練習してて良いの?意味あるの?」とか「何考えているのか分からない。」などです。
自信をつけるための準備の部分に不信感を持っていたら、チームは団結しないし強くなるわけがありません。
これこそ、試合を分析したり、練習を設計したりする学生コーチという立場にあり、チームをまとめ上げる上級生という立場にいた私の出番です。
そこからは、チームメイトやコーチ陣と「どうやったら強くなるか?」ということを何度も話したり、役立ちそうな本を片っ端から読んだり、またまたチームメイトと話したりということを繰り返してきました。
本はバスケットボールの本だけでは本質的な部分が見えないと考えていたので、色々なチームのビデオや監督・コーチが書いた本や、孫子などの一般論的な戦術書、「サッカー×数学」といった内容の本、ビジネス書、モチベーションに関する本など色々読みました。
騙されたと思って読書はしてください。
目の前のことを頑張っているだけで勝てるほど甘くはないし、本や大学の授業でのインプットを大切にすると現状と理想のギャップ、その埋め方、さらなる先まで見えてきます。
役に立ちそうなところをチームに持ち帰り、「チームをより良くより強くするためにはどうするのか」を議論する。
こうやって論理的かつ情緒的なコミュニケーションを多くしてきたのが良かったのか、内容が良かったのかはわかりませんが、今年のチームは幾多の苦難に遭遇するも、その度に団結し成長して乗り越えてくることができました。
「最高のチームだった!」「もっと見ていたかった!」「ありがとう!」という声を沢山かけてもらえたのは良い思い出ですが、入れ替え戦で関東一部と戦ってみたかったし、インカレにも出てもっと試合がしたかったというのは、唯一の後悔です。
正しくないと思った事は放って置かず、何が正しいのかを考える。
そして正しい事のためならどんな障害があっても譲らない頑固さを持ってやりきる。
もちろん失敗する事も多々ありますが、100%の努力の先にある失敗は、120%、130%の努力をするために必要な学びを与えてくれます。
失敗は引きずらずに”今”に活かして未来のために積み重ねていく。
人生は一度きりだし、現役の四年間はできることに比べて短いです。
怠けていたり、愚痴を言っていたら、あっという間に過ぎていきます。
どれだけ1日1日をチャレンジングな日にできるか。
「上級生になってから」なんて考えは甘すぎます。
他のチームの四年生だって最後くらい頑張ります。
優位に立つにはどれだけ下級生の頃から頑張るか。
私の同期は鳥羽、原、澤近、小原、吉敷、宇野がそれぞれの立場で上級生顔負けの責任感を持ち日々を過ごしていました。
私は、上級生になってから取り返すのに苦労しました。
現役の可能性は無限大です。
現役は何をどこまでやっても、それが必死さ故の行動ならば大概許され、大人の方々が助けてくれます。
もう私が、バスケットボールのことやチームのことについて話しても「OBからの説教」の域を超えられないかもしれないけど、現役の言葉には強いパワーがあります。
戦術だけの学生コーチではなく、基礎技術に詳しい学生コーチもいればBチームや一貫校のレベルも上がるかもしれないし、メンタル面やイベント、グッズ、マーケティングとかに詳しい人がいたらもっとチームは強くなるし面白くなるかもしれません。
ぜひ最高で感動的なチームを作って欲しいです。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
このように、「個人の時代到来」というニュースが流れまくる昨今ですが、「チーム」にいた事で私は、自分だけでは気づけない事に気づけたり、「チームのため」という考えを心の底から持った事で、人間的にもスキル的にも圧倒的に成長する事ができました。
それは、チームを愛せば愛すほど「あれもこれも!自分がやらねば誰がやる!」状態になり、できることが増えて行くからだと思います。
さらに、生涯の友という特典付き。
彼らと一つの目的・目標のために団結し、苦難を乗り越えてきた日々、勝利した時に力一杯抱き合った瞬間は最高でした。
「自分のため」より「チームのために」の方が、自分のため

卒業ブログ 宇野 晋一郎
2019年3月19日 19:00| Comment : 0
題名:愛と笑い
突然ですが、皆さんは
何かを愛せてますか?
今日笑えてますか?
『愛と笑い。』ふざけているようですが、僕の人生のテーマです。
何かを愛し夢中になり、そして笑顔で生きる。僕の幸せはここにあります。
慶應義塾志木高等学校に入学しバスケッボール部に入り、関東大会出場や主将まで務めさせて頂いた3年間、大学ではコートに立つ立場ではありせんでしたがスタッフとして過ごした四年間、幸せでした。幸せ太りで高1入学当初は50キロ程しかなかった体重も今では75キロあります。
そのような幸せな環境で過ごさせて頂いた7年間の感謝を綴らせて下さい。
またこれを読んで、慶應でバスケットボールっていいなって少しでも多くの人に思っていただければ幸いです。
慶應志木で過ごした3年間は間違いなく僕の人生の分岐点でした。
中学では、エース兼主将で正直チヤホヤされるのに酔ってました(笑)。
しかし、志木校バスケットボール部入部とともに実力の差に唖然としました。同期にも歯が立たないし、先輩はうまいし体がでかすぎるし、正直試合に出れるのか心配な程に。
井の中の蛙大海を知らずってやつです。
入部して1年目はひたすら声を出して、がむしゃらに頑張っていましたが、試合には出れませんでした。
なんで試合に出られないんだろう…?
監督、ヘッドコーチには
「試合に出てる人よりシュートもドリブルもパスも下手だから出れないんだ。」
と、言われたのをすごく覚えてます。
ド正論ですよね。何も言い返せませんでした。
ただこれには、続きがあり
「じゃあ何をしたら出れるか、チームが勝てるかを考えろ。」こうも言われました。
この日から「がむしゃら」に取り組むのではなく、「考えてがむしゃら」に取り組むようになりました。
上手い人より、1秒でも早く動く、1秒、1cmきついことをする、そう考えてがむしゃらに動きました。シュートで敵わなかったら、技術より気持ちが大事なリバウンドやルーズボールに徹しよう。そう考えてがむしゃらにコートを走り、飛び込みまくりした。努力は裏切らないと言いますが、考えない努力には裏切られます。すごく単純なことですが、成果が変わってきました。
2年目は主将になり、全く違う立場で難しかったです。主将になった理由としては、僕の代がヤンチャな人だらけで、それを牽引していたヤンチャものが僕だったからだと思います(笑)。
ルーズボールとリバウンドで少しずつ試合に絡めるようになってきた2年目。試合に出始めてからは頑張るモチベーションが変わりました。
勿論試合に出たいから頑張るという気持ちもありましたが、試合に出ていない人間が自分の姿を見て納得出来るように頑張りました。一人で頑張るのではなくチームで頑張るということを体感したのもここからでした。
主将として意識したことは
「チームメイトから向けられる100%の理想に向けて120%努力しろ」
「辛い時でも笑顔でいる」
これだけです。
技術のない自分にはプレーで引っ張ることができない分、精神的支柱になることを考えてました。空回りしすぎて、倒れるくらいきついトレーニングも笑いながら走っていた記憶もあります。傍から見たら不気味ですね(笑)。
最終的には平均身長も小さく、シュートもドリブルもパスも下手で、だけどもリバウンドとルーズボールに飛び込むことだけは日本一を誇れるチームになった気がします。日本一は冗談ではなく日本代表にも勝る自信はあります。たまに試合のビデオを見るのですが、ボールが転がるたびに誰かが一緒に転がっていました。
今でも覚えるのは関東大会で準優勝しているチームに残り0.4秒で逆転勝利した試合です。相手は約195cmの高身長プレーヤーが2人いる大きいチームでした。逆転した最後の1プレーはリバウンドとルーズボールで競り勝ちを手にしました。バスケットボールは背が高いチームが一般的に有利ですが、地面に転がるボールには高さが関係ないので徹底して飛び込みました。
最後の逆転の瞬間も勿論記憶にありますが、自分のシュートが入ったのを今でも鮮明に覚えてます。
今まで試合でミドルシュートを打たなかった僕(壊滅的に下手だったので)が試合に出れていないチームメイトに「空いてるならシュート打てよ」と喝を入れられたからです。
一緒に頑張ってきて、彼らの代表で試合に出ているのだと思うと本当に力って湧いてくるんです。多分同じ状況でシュートを打たされてももう2度と決める自信はありません。

これぞチームスポーツの良さだと思います。1人では乗り越えられないものも乗り越えられる。
愛するチームの為に頑張れる、そしてどんなに辛い事も笑顔で乗り越えられる。そう思わせてくれたチームメイトにまず感謝したいです。それを気付かせてくれた監督、ヘッドコーチ、支えてくださったOB、保護者にも感謝しています。
高校生活の話でお腹いっぱいだと思うんですが、もう少しお付き合いください(笑)。
そんな高校生活を経て、僕は正直完全燃焼で体育会に入る気なんてありませんでした。なので大学一年生の春はサークルに行ってみたり、留学してみたりと今までと全く違う人生を歩んでみました。
しかし、何か物足りない…。
そう思っていた頃に、志木高の時からの同期の小原&吉敷にピザ屋さんで体育会に誘われました。
久しぶりにご飯でも行こうというノリだと思ったら、「大学でスタッフをやって欲しい」と突然言われたので正直驚きました。ここまで読んで僕のことを知らない方も気付いてきたと思いますが、そう、僕はお調子者の目立ちたがり屋です。
裏方に徹する事なんて出来るのかな…と迷いました。
いざ練習に行ってみると、練習中からスタッフの活躍が凄いんです。学生コーチ、マネージャー、トレーナー、学連。色々な立場の人が練習に、試合にそれぞれの仕事で貢献しチームに勝利をもたらす。裏方と思っていた自分が恥ずかしいくらい試合に出る出ない関係なく全員が前へ前へと引っ張る姿、自分の役割を全うする姿に組織力を感じ、憧れを抱きました。そしてここの一員になろうと決心し、一年生の秋、学生スタッフとして入部しました。
それからというもの、四年間でマネージャー、一貫校コーチ、学生コーチ、広報と色々な事に携わりました。
僕が一番心に残ってるのは三年生の頃に行ったホームゲームです。
地域の皆さま、一貫校、慶應生、他部、OBの皆さま、大学バスケファン、数えればきりがないほどの多くの方に応援されていることを再確認しました。
早慶戦とは違い、完全にホームの雰囲気の中試合をし、用意した企画に喜んでもらえる、試合を楽しんでもらえる。自分の為に頑張ってた高校当初に比べ、チームのため、選手のため、そして応援してくださる人のため、どんどん輪が広がっていきました。

四年間スタッフをやってきて感じたことは、なんといっても周りに支えられていることです。ありきたりな言葉ですが本当に感じてます。
間違いなく今の同期、先輩後輩がいなければ今の自分はありませんし、ご支援ご指導くださったOBの皆さま、保護者の支えがなければ成り立ちませんし、応援してくださる方がいなければ頑張れませんでした。
本当に四年間有難うございました。
慶應義塾のバスケットボールで何を得た?と聞かれたらこう答えます。
生涯の友です。自分でもこんなクサいこと言うとは思いませんでした。
確かに仕事を処理する能力、分析する能力、企画力など様々なスキルは身につきました。
しかし顔から火を出してでも断言できます。それより大事なものを得ました。
愛するバスケットボールに携われ、愛する同期に恵まれ、色々な方にチームを愛してもらえ、なんでもない日でも、辛い日でも毎日笑顔で過ごせ、僕は幸せでした。引退後は仕事に就くまで夢中になって愛せるもの、笑顔で過ごすことを模索中です。貴重な学生時代、慶應義塾のバスケットボール部で、まさに愛と笑いに溢れた7年間を過ごすことができ良かったです。
最後に皆さんにもう一度聞きます。
10年後、20年後、死ぬ前の僕も、読み返す機会があれば自分に問いかけてください。
何かを愛せてますか?
今日笑えてますか?