題名:大学バスケットボールを振り返って
突然ではありますが、感謝からこのブログを始めさせてください。
僕は最高の同期に囲まれたおかげで、笑って卒業することができるのだと思っています。
勿論同期だけでなく、先輩や後輩、OBやスタッフの方々にもたくさん支えて頂き、感謝の言葉は尽きません。
しかし、一番つらい時期を乗り越えられたのは、この6人がいてくれたからであると思っています。
普段は照れ臭くて絶対に言えませんし、この先も直接言う予定はないので、この場を借りて一人ずつ気持ちを伝えたいと思います。
鳥羽は何に対しても真面目で、熱心で、努力家で、誰が見ても「キャプテン」にふさわしい選手でした。
シュート力からディフェンス力、バスケIQとどれをとっても流石の一言で、最初見たときは同級生ながら憧れました。
一年生から試合に出場し、結果を出し続ける姿は、ベンチで見ているしかできなかった僕を何度も奮い立たせ、体育館に足を運ばせました。
普段の練習では、なぜかマッチアップをすることが多く、練習中何度もカモにされました。
しかし鳥羽のおかげで並のディフェンスは怖くなくなりました。
鳥羽のおかげでレベルアップできたといっても過言ではありません。
ありがとう。
原はチーム一のムードメイカーであり、どんな暗い雰囲気の時も、笑顔や言葉一つで吹き飛ばす力を持った、とても頼もしい副将でした。
最初は僕と同じようにコートサイドから練習を見ることしかできないところからスタートしたのにも関わらず、正確無比な3Pシュートとセンス光るプレーの数々で、瞬く間にチームを代表するガードになっていました。
勿論悔しかったのですが、結果を出して試合に定着するということを実践してくれたので、とても尊敬していました。
また「絶対に負けたくない」と思って努力し続ける原動力にもなっていました。ありがとう。
澤近は誕生日が同じだったり、合宿の部屋が何度も同じだったりと何かと縁がありました。
最初は標準語がしゃべれず、練習中にも方言を全開にしていた澤近。
息が切れているときに話しかけられても何を言っているのか理解できないことがよくありました。
研究熱心で闘争心が強く、四年生になるとどんな選手にも当たり負けしない強靭な体を手に入れていました。
澤近の放つミドルシュートへの信頼は絶大で、何度もチームは救われました。
また、澤近のおかげでアシストが増えたのでとても感謝しています。ありがとう。
小川はチームで一番の努力家で、いろいろな立場を経験しながらも、それぞれの場所でできることに全て取り組む、妥協のない男でした。
そして何より、バスケットボールが大好きでした。
選手の時代は誰よりも長い時間コートにいて練習し、トレーニングに励んでいました。
その姿を見て、生半可な努力しかしない中途半端な選手でいるのは失礼だと思ったし、「選手として試合に臨む」ということは「コートに立てない人の分の想いを背負う」ということだと強く実感しました。
学生コーチになってからも、きっと想像を絶する量の勉強をしたのだと思います。
小川が色々アドバイスをくれたおかげで、試合で貢献できる選手になることができました。
ありがとう。
宇野はチームでのおちゃらけ担当で、笑いが起こっているところに行くと大体彼の姿がありました。
楽しいことが大好きで、何度笑わせてもらったか、苦しく、悩んでいるときに何度助けてもらったかわかりません。
常に周囲に気を配り、怒られないギリギリを歩く。
どんなにむかつくことをされてもなんだか憎むことのできない、愛されるキャラクターでした。発想が天才的で、さまざまなイベントを成功に導き、チームを盛り上げてくれました。
最後まで笑いの絶えないチームだったのは宇野の功績が一番大きいと思っています。
ありがとう。
吉敷はチーム一のストイックで、誰よりも自分に厳しく、高校から七年間一緒にいて弱音は一切聞いたことがありません。
誰よりも泥臭く、人が少しでもさぼってしまうことを徹底して全力で取り組み続けることができる男です。
不運にも怪我もあり、出場機会にはなかなか恵まれませんでしたが、四年間腐らずに努力を積み上げ続けた結果、最後のリーグ戦で圧倒的ブレイクを果たしました。
吉敷と大学という舞台で再びスターティングメンバーとしてコートに立つことができたときは、とてもこみ上げるものがありました。
同じBチームで練習してきて、実際に口にしたわけではありませんが苦しさや葛藤、辛さを分かち合うことができたからこそ最後まで全力で走りぬくことができたのだと思っています。
ありがとう。
僕は高校を引退するときには体育会に挑戦することを決めていました。
国体に選ばれるような選手でもなければ、全国大会に出場したこともなく、四年間試合に出られない可能性が高いことはわかっていました。
しかし、どんなにバスケットボールがしたくても、全力で取り組むことができるのは大学の四年間しかないと思うと、六歳から続けてきた集大成として挑戦しない選択肢は僕にはありませんでした。
いざ入部してみると想像していたよりも何倍もレベルが高く、驚愕することばかりでした。
フィジカルの強さも、シュートの確率も、ドリブルの上手さも、パスの多彩さも全てが何段階も上でした。
驚きはしましたが、後悔や諦めはなく、その時に抱いたのは「どうやって少しでも追いつくか」というわくわく感でした。
最初は練習すら参加できないところから始まりました。
空いている時間に体育館に足を運んでシュート練習をし、練習中はコート外から一つでも何か得られることがないか探すことに徹しました。
少しずつできることを増やし、自分が少しでも貢献できる強みは何かを考えてその点を強化しながらアピールしました。
その甲斐あってか、二年生の秋リーグから、少しではありますが出場時間をもらうことができました。
しかしコートに立っても思うようなプレーができませんでした。
思い切ってプレーをすればいいのに、ミスを恐れて全てが中途半端になっていました。
鳥羽や原、澤近に加え、山崎高田という下級生のメンバーも試合でしっかりと結果を残すのを見て、悔しくて仕方ありませんでした。
それと同時に「負けてられない」と、さらに練習に熱を入れるようになりました。
しかし、この頃辺りからだんだんと膝が痛むようになってきました。
筋や骨に異常があるのではなく、慢性的な疲労や筋肉の硬さからくるもので、一気に治るものではありませんでした。
休んでいれば痛みが出なくなるという保証はなく、根本を解決しなければまた発症するものでした。
もっと試合にでたい。
でも練習すればするほど痛みは強くなる。
僕が一番つらかったのは、この膝の怪我で頑張りたくても頑張れないジレンマに陥ってしまったことです。
練習が終わってアイシングしなければ腫れはひかない。
しかし完全にクールダウンしてしまうと痛みで思うように体が動かない。
トレーニングでも追い込めない。
焦りと不安ばかりが募っていきました。
そして、なにより嫌だったのが自分の言い訳に膝の怪我がよぎってしまうことでした。
「試合に出られなくても膝の怪我があるから仕方ない」
「思うようにプレーできないのは膝の怪我のせいだ」
心から前を向き、考えながら努力をしなければ上手くなれないことはわかっているはずなのに、一番嫌いな「自分に甘い言い訳」が何度も出そうになりました。
それを払拭するように練習に打ち込もうとするとさらに膝の痛みが増す。
どうすればいいか分からず、夜も中々寝付けなくなったのを覚えています。
そんな中で、やはり前を向かせてくれたのは同期でした。
僕の同期は本当に全員尊敬できる人でした。
絶対に音を上げず、どんなに辛く大変な状況でも努力で乗り越えてしまう精神力をもっていました。
その姿を近くで見て、心が折れそうになっても最後まで前を向き続けることができました。
一人でも適当に物事を済ませてしまうような奴がいたら、僕は胸を張って「頑張った」と言い切ることはできなかったと思います。
全国大会を経験したことのない僕にとって、全国から有名な選手が集まってくる体育会という舞台でプレーすることは憧れであり、バスケット人生最大の挑戦でした。
入部前から「絶対に諦めない」と覚悟を決めて飛び込みました。
辛く、苦しいことはたくさんありましたが、毎日何かに挑戦、失敗し、成長を実感できる環境で過ごすことができて、本当に充実した日々を過ごすことができました。
同じ志を持った人が集まる集団で、かつ心の底から覚悟を決めていたからこそ、最後には憧れの舞台で貢献できるような選手になることができたのだと思っています。
大学の四年間は本当にたくさんの選択肢があり、色々な経験ができる機会が転がっています。
僕は四年間をバスケットボールの集大成としてやり切ると決めて臨み、多くの経験と生涯の友を得ることができました。
四年間は長いようで、本当に短いです。
自信がある、ないで判断するのではなく、自分が真にやりたいことは何なのかを自分に問いかけ、覚悟を決めて挑戦してみてください。