ラストブログ 神吉秀一

「後ろから見える景色」

はじめに

こんにちは。

私、慶應義塾大学経済学部経済学科4年の神吉秀一と申します。学生トレーナー兼広報として4年間活動して参りました。表に立つことがないポジションだったので、「誰だお前は!」と思っている方も多いと思いますが、実は早慶戦のパンフレットでは毎年のようにランキングに載っていました。(手元にある方は是非探してみてください笑)

引退までの4年間はあっという間だったようで、とても長かったなと感じています。その分、楽しいことも辛いこともたくさんありました。振り返ると私たちの代は「コロナ」、「2度の体制変更」などを経験し、変革の時代を生きたなという実感があります。

今回のブログでは、私のバスケとの出会いから先日の引退までを振り返っていきたいと思います。

拙い文章ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

バスケ人生の始まり

私がバスケットボールを始めたのは慶應義塾普通部2年生の頃でした。それまではサッカー、野球、水泳、空手、陸上と様々な競技を渡り歩いていたのですが、小学生の時から持っていたバスケットボール部への憧れを捨てられず、途中入部を決心しました。運動神経にはそれなりに自信もあり、数ヶ月で試合に絡めるくらいにはなったと記憶しています(ルールはあまり理解していませんでしたが…)。

(中学時代のプレー写真)

まだまだ自分の伸びしろを感じ、内部進学で入学した慶應義塾高等学校(以下、「塾高」とする。)でもバスケ部に入部しました。

塾高のバスケ部での生活は、今の自分の根幹を作ったと言っても過言ではありません。毎朝6時に体育館に行きシューティングをし、授業後も夜まで練習だったのを考えると今でも恐ろしいなと思います。

ただ、自分の根幹を築いたのは身体的な辛さではではなく、考え方の部分でした。先生の指導の下で、どのようにすれば勝てるのか、そのために必要な行動は何かを常に考えさせられ、全員が素直に愚直に努力しているような環境でした。

私のバスケの実力は、AチームとBチームを行き来するような微妙な位置で、公式戦にはほとんど出られなかったと記憶しています。ですが、私の強みは軸をブラさずに努力できることであり、それが仕事でした。一切の妥協を許さず黙々とやっていたような気がします。

多くの指導者の方に今年は勝てる良いチームだと言われたものの、意外とあっさり負けてしまい不完全燃焼に終わったのを覚えています。

(高校時代のプレー写真)

不完全燃焼で高校バスケを終えた私は、大学でも体育会に入ると最初から決めていました。そしてなによりも、幼い頃から大学の早慶戦を観に行っては憧れを抱き、自分もこのチームの一員になりたいと強く思っていたことが入部を決めた大きな理由の1つです。

ただ、身長も高くなければスキルも大してない私にとって、どうすれば体育会で活躍できるのかはかなり悩みました。

塾高時代、体育会の部員が練習試合の相手になってくださることが何度かありました。その時にスタッフの存在を知り、中には身長が高いのに、バスケが上手いのにスタッフをしている人がいることに気づきました。

体育会は選手が全てではないという新しい選択肢が生まれ、自分の活躍する場所はここかもしれないと、人のために尽くすことが好きだった私はスタッフとして活動することを決め、一貫校の繋がりと当時のヘッドコーチのご厚意で、高校3年生の冬頃から体育会の活動に参加し始めることになりました。

1年目

4年間を共にした同期よりも一足先に体育会での活動を始めたものの、2ヶ月も経たないうちに猛威を奮ってきたのは新型コロナウイルスでした。社会情勢は目まぐるしく変化し、高校の卒業式は行われず、大学の入学式は中止、例年は4月から始まる授業は1ヶ月遅れ、すべてオンラインでの実施となりました。

対面での部活動はもちろん禁止となり、竣工直後の新しい日吉記念館に入ることもできない半年間を過ごすことになりました。

ちょうどポジションが空いていたトレーナー兼広報としての活動を始めたばかりで右も左もわからない中、感染症対策の責任者を任され、対面の新歓が行われない中での新歓活動をすることになり、完全にキャパオーバー、コーチ陣、先輩からも怒られ続ける日々でした。

7月から練習が部分的に再開となり、選手は何グループか時間ごとに分け、8月から同期の1年生たちも合流するようになりました。自分の練習が終われば帰宅し、オフもスケジュールされている選手たちがいる一方で、スタッフの自分は全部の時間帯に参加し、オフもなし、家でも部の仕事でパソコンと向き合わなければいけない、なのに先輩からは目を向けてもらえない。その生活が2ヶ月ほど続き身体的にも精神的にも悲鳴をあげ、部を辞めたいと思ったのを覚えています。

そこから先輩をギャフンと言わせ、共に練習を乗り越え、大会で優勝しましたというようなサクセスストーリーは別にありません。試合も中止となり練習する意味を問われ、同期との関係も出来上がっておらず悩みを相談できる相手もいない自分を動かしていたのは、昔から抱いていたかっこいい体育会への憧れだけでした。正直、1年目はお世辞にも楽しいと言えるような生活ではありませんでした。

(何もできないなりに同期と1日かけて部室の大掃除をしました)

2・3年目

毎年、新チームになる度に今年はもっと良くしようと意気込んでいました。時にはそれが空回りしてしまったり、思った通りにならず同期に指摘されたりということもありました。今となってはそれが糧となりここまで頑張れたのかなと思っています。

2年目のシーズンが終わり、3年目のシーズンが始まろうとしていた時、監督、ヘッドコーチ、アシスタントコーチ、社会人トレーナー全員が変わりました。

チームとして1から作り直さなくてはいけないという状況の中、チームをまとめ上げた当時の4年生の先輩方はすごかったんだなと、4年目を終えてから気づきました。先輩に生意気言って激しくぶつかり合い、居場所を見失い、2度目の部活を辞めたい時期が訪れました。

この頃あたりから心の支えになったのは同期の存在でした。

学生トレーナーという役職柄、選手が怪我をした時には一番近いところで過ごしてきたのですが、3年目が始まってすぐに同期の清水が半月板と前十字靭帯を損傷し、手術と8ヶ月にわたるリハビリ期間に入りました。清水は塾高時代からの同期で、試合でもプレータイムを掴み始めた最中の出来事だったので、自分のことのように悔しかったです。

リハビリというのは本当に地味でつまらないもので、体も思うように動かないのにバスケもできないと、怪我をした張本人はモチベーションの維持が難しい地獄の期間だったと思います。そんな中でも辛い顔を一切せず、早く治して試合に出るんだと淡々と目の前のことに向き合い続けていた清水をすぐ側で見ていて、自分もこのままじゃだめだと常に刺激を受けていました。

(夏合宿中、昼休みでもリハビリを頑張っていた清水)

今思えば、3年目の同期は怪我ばかりでした。早慶戦2週間前に捻挫で練習から外れた藤島、腰を痛め夏合宿で動けなくかった熊野、リーグ戦1試合目で肘の脱臼をし2ヶ月の離脱となった山本。

わざわざこんなことをやらなきゃいけないのかというような、つまらない動きをひたすらよく頑張ったと思います。本当にお疲れ様、そしてありがとう。選手として怪我をするのは望ましくないですが、常に誰かが私の近くにいてくれたおかげで、私も一緒に頑張れていたと思います。

4年目

気づけば4年目のシーズンが始まり、2度目の体制変更がありました。前任の方から赤峰監督、湯浅HC、鈴木AC、甲谷ACがチームに加わり、新チームが始動しました。

山本を主将に構え、「奮軌」というスローガンの下に動き出した今シーズンは、今までで1番濃く、充実していて、楽しかったと思える1年間になりました。全てが良い思い出です。

キックオフ合宿で新社会人と顔を合わせ、基礎練とミーティングを繰り返し、1から基盤を作っていきました。とは言っても、頼れる同期ばかりだったので大体は幹部に任せて、私は安心してついていくだけでした。

3月の六大学リーグ、早慶戦優勝を目標に掲げながらも早稲田相手に大敗を喫したのですが、このままじゃダメだと強い眼差しで前を向いていた選手たちが印象的でした。ウエイトトレーニングのプログラムも再編し、5月のトーナメントでは1部の青山学院大学を相手に好感触で終わり、練習試合でも上位リーグの大学相手にも戦えることに気づき、選手たちは少しずつ自信をつけていっていました。

そして迎えた早慶戦、これまで1度も勝ったことがない早稲田大学を相手に、選手たちは熱戦を繰り広げてくれました。1年生の時はコートの隅でハンドリングをしていた同期も、全員がコートに立ち結果を残し、大怪我を負って復帰が難しいと言われ、長期間一緒にリハビリを頑張った選手たちが目の前で点を決めてくれるんですから、幸せなことこの上ないです。

シュートを打つだけでも会場が揺れるほどの歓声の中ベンチに立って大声で応援でき、小さい頃から夢見ていた体育会バスケ部の一員になれたなと、本当に良かったなと心から思いました。

結果として負けてしまったものの、秋のリーグ戦はすぐやってきます。今年こそは2部昇格と、全員で動き出しました。

そしてリーグ戦開幕、順調な走り出しで6連勝。それまでに自信はつけてきたものの、本当にこのまま勝ち抜くことができるのか、不安な部分もありました。昨年2部から降格してきた立教大学、埼玉工業大学。はっきりいって強かったです。頭で勝つ慶應とは言っても、補いきれないほどの実力差があったのかもしれません。

3年目は無傷で終えた同期の山口も、1年間通して膝や足首の痛みと闘い、リーグ戦後半は「やるしかないから」と言って走り続けていました。

1巡目を3位で終え、昇格の可能性も見えたまま上位リーグへと進みました。ただ、そこに立ちはだかったのはやはり立教大学と埼玉工業大学でした。1巡目での試合を振り返って新たに対策を講じましたが、歯が立たず敗戦、最後の國學院大学戦を残して昇格の道は途絶えてしまいました。

4年間1度も目標を達成できないことが決まり、全員が落ち込んでいました。ただ、誰からも応援されるチームを目指す我々は、絶対に勝って終わろう、1つでも上の順位になろうと、檄を飛ばし合い最後の試合に挑みました。

最後の試合は、1年間、そして4年間の集大成という言葉が相応しい試合でした。ひたすら楽しかったです。多くの友達が遠方にも関わらず応援に来てくれ、他チームでは考えられない人数の観客が集まっていました。試合展開は序盤から本塾が流れを掴み、相手を寄せ付けませんでした。

終盤、同期の選手5人が同時にコートに立ったとき、4年間の思い出が急にフラッシュバックしてきて、この瞬間を見るためにやってきたんだなと、皆の努力が報われて本当に良かったと心から思いました。慶應では珍しい100点ゲームの勝利で試合終了し、同期と抱き合った時には自然と涙が溢れてしまいました。

これで終わりなんだと、みんなよく頑張ってくれたなと、こんな景色を見せてくれてありがとうと思いました。

本当に楽しかった。幸せだった。

(最終試合後の集合写真)

さいごに

チームに何かを残したわけでもない一部員の文章をここまで読んでいただきありがとうございました。

私は感情を表に出すことが上手ではないので、何を考えてるのかわからないと言われたり、本気じゃないでしょと言われることもありました。学生トレーナーとして、時には選手に寄り添い、時には背中を押してあげなければいけない時があり、選手が「痛い」と言っても、見ないふりしてプレーを継続させることはすごく辛かったです。それが皆のためになったかはわかりませんが、自分なりに一生懸命やってきたこの4年間は、かけがえのない宝物になりました。

最近は、大事な試合の前に作っていたモチベーションビデオを1人で夜な夜な見ながら目を潤ませたりもしています。

卒業後はOBへと形が変わりますが、継続して選手をサポートできればと思います。

これまで多大なるご支援・ご声援をいただいた皆様、本当にありがとうございました。

(社会人になっても何度でも集まりたい仲間です)