ラストブログ 山本純平

4年間の旅路で得た「宝」

はじめに

初めまして。

慶應義塾大学商学部4年の山本純平と申します。

ぼくにとって初めてのブログが卒業ブログになります。

卒業ブログ執筆の話を頂いてから、誰に向けて?どんな題材で?何を書けばいい?そんなことを考えながら1週間くらいが経過しました。

そして漸く頭の中でまとまったので、キーボードの音をカタカタと鳴らし始めました。

そんなことはどうでもよくて。

まずは、このページを開いてくださり本当にありがとうございます。

ぼくについてSNS等での紹介は殆どなく、ぼくのことを知らない人が多いと思うので、軽く自己紹介をさせてください。

背番号は8番、身長は179.3cm、体重は73kg、ポジションはSF、出身校は慶應義塾志木高等学校。プレーの強みは、腕の長さと脚力を活かした「スティール」と「ディフェンスプレッシャー」です。

運のよいことに、オータムカップ2020(=関東3部リーグのトーナメント)では、4試合・出場時間30分でスティールランキング6位になれました。

プレー以外の活動では、下田学生寮学生本部を設立し、初代代表を務めていました。

特にコロナウイルスに対する寮内の自治・安全に関して、体育会事務室と連携を取りながら、感染対策を実施していました。

でも、胸を張って話せることはそれくらいで……

下級生の頃のぼくは、先輩や同期にとってすごく迷惑なやつでした。

ぼくは強豪校出身でもなければ、技術がある選手でもない。それに加えて、大学4年間で大きな怪我を4回もしてチームを離脱。

さらには、ぼく自身の問題で、何度もミーティングが開催されました。

本当に迷惑をかけてしまっていたと思うと同時に、そんなぼくに対しても、常に寄り添い続けてくれたことに本当に感謝しかありません。

そしてこのブログは、そんなぼくに同期・先輩・後輩がくれた「宝」について、大学4年間の経験を交えながら綴っていきたいと思います。

読みづらい点が多々あるとは思いますが、少々お付き合いいただければと思います。

「個人ファースト」から「チームファースト」へのシフト

ここからは、ぼくの失敗経験について話したいと思います。

「お前の存在価値はなに?」

4年間を振り返って、これがぼくのテーマだったと思います。

体育会バスケットボール部という組織には、常に存在価値を問われ続ける環境があります。

決してネガティブな意味ではありませんが、個人の主体性を尊重するチームだからこその環境だと思います。

傍観者はチームに必要ない。

この環境に耐えきれずに辞めていく人を何人も見てきましたし、ぼく自身もこの環境に何度も押し潰されそうになった一人でした。

「周りよりも練習しなきゃ」「試合に出たい」「体重を増やさなきゃ」「いい評価を得たい」「朝練に行かなきゃ」。

そんなことが頭の中を埋め尽くしていました。

さらにぼくは自宅が遠く、通学時間が1時間30分、毎日の睡眠時間が4時間ほどだったため、追い打ちをかけるように精神的・肉体的疲労は蓄積されていきました。

「部活動が有意義に感じない。」

それもそのはず。

「義務感」や「睡眠不足」にとらわれて、思考のベクトルがすべて自分自身に向いているのだから。

本来であればチームの課題や目標に対して、自らの課題・目標をコミットさせていくべきです(=チームファースト)。

でもぼくは、置かれた環境をどう乗り切るのか、に思考が向いていたため、優先順位の1番目が自分自身に向いていました(=個人ファースト)。

そして、その思考によって仲間との関係に楔が打ち込まれていき、徐々にチーム内での孤立を生んでいきました。

ぼく自身も、空回りしていく感覚を感じましたが、ぼくひとりでは自分の首を絞めるばかりでどうしようもありませんでした。

それよりも、周りに気づかれないように自分自身を隠したりして…そんな自分が嫌で嫌で仕方なかったです。

しかしそんなぼくも、先輩方や同期が何度もミーティングを開いてくれたことで、徐々にチームファーストを理解していき、チームスポーツの本当の「楽しさ」を理解し始めました。

そうです。1つ目の「宝」は、この「チームファースト」の思考です。

「自己認知」と「他者認知」の一致

それから身の回りの環境やマインドセットが少しずつ変わっていきました。

2年生の冬に日吉にある下田学生寮に入寮してから、実家通いと比べて往復で2時間以上も通学時間を短縮できたことで、QOL(生活の質)は激変しました。

これがぼくにとっての転換期となります。

学生寮というオープンなコミュニティは、他の寮生とのコミュニケーションを生み、いろんな価値観や考え方を知るきっかけになりました。

逆に言えば、自分のことを他人に知られるようになりました。

それまでは自分自身を閉ざしてしまっていたので、このコミュニティでの出合いやコミュニケーションは、いい意味で部活動に影響したと思います。

話は変わりますが、

ぼくは、会話やミーティングなどの「話す」という行為は、「自己認知と他者認知を一致させること」だと考えています。言い換えれば、相互で「共通認識」をつくる、ということです。

この共通認識が及ぼす力は、個々で何かを為す力よりも大きな力になる。

チームスポーツが「足し算ではなく掛け算だ」と言われる根源がここにあると思っています。

例えば、その一つがチームルールです。

理想のチームとは、まずロールモデルがあって、そのロールモデルに近づけていくために現状と比較しながら課題を細分化、そして各々に周知・徹底させることでチームを創っていきます。

その過程で、共通認識となるチームルールを設けることは、理想のチームとの乖離が生じていた場合に良し悪しの判断を円滑にできるだけではなく、プレーにおいては、条件反射で動くバスケットボールというスポーツの場合に判断の数を減らすこともできます。

チームスポーツを知っている人は、これがどれだけ試合の勝利に影響するかが理解できると思います。

この考え方の前提にあるコミュニケーションの重要性は、言うまでもないですね。

そして、ぼくは下田学生寮に入ってからコミュニケーションの数が圧倒的に増えました。

寮生で鍋をしたり、ゲームをしたり、就活の話をしたりと、寮ならではの関係がきっかけとなって、本音で話せるような「友」が増えました。

それは精神面でも部活動でもぼくを前向きにしてくれました。

そうして迎えた3年生の早慶戦では、1部の早稲田大学に対して2部の慶應義塾大学がまさかの下克上を果たしました。

勝利した瞬間は心から嬉しかったですし、チームの勝利を実感できた最高の瞬間でした。

この経験が一つの成功事例となって自分に自信を持てるようになりました。

心の底から嬉しいと思えたのは、紛れもなく「友」がいたから。この友が2つ目の「宝」です。

「正しい場所で、正しい方向に、正しい努力をすれば後悔は残らない。」

そして、「2部リーグ昇格」「早慶戦優勝」を目標にスタートしたぼくらの代。

先代が引退してすぐに練習が始まりましたが、緊急事態宣言の発出によって3ヶ月以上も自宅待機を強いられました。

バスケができない「もどかしさ」や例年通りに試合ができない「悔しさ」、そしていつ引退宣告が下るのかわからない「恐怖心」と闘いながらも、ぼくらの代で後輩たちに残せるものは何か、宣言解除後にスタートダッシュを切るためには何をすべきかを考えながら、チームのシステムやマインド、考え方などをすり合わせていきました。

そして宣言解除後、漸くスタートできると思った矢先、再びトラブルが起こってしまい、またチームでの活動は足止めとなりました。

「早くバスケがしたい」

積りに積もって崩れそうな勢いです。

バスケができることが当たり前だった昨年までに比べて、今年は我慢の年です。

仕方のないことだけど、ぼくらの代であることには変わりない。

ぼくが小学6年生の頃も、東日本大震災で全国大会が中止になりましたが、つくづく運がない学年なのかなと感じます。

このような環境下でしたが、ありがたいことに3部リーグのトーナメントの開催や、早慶戦の開催が次々に決まりました。

本当にありがたい。

これほどバスケができることに感謝したことはありません。

3部トーナメントは、シードだったため1試合減って合計3試合でしたが、その試合のために最大限の準備をしました。

しかし、やらなければならないことが多すぎて時間が足りない。

週7回の朝練と夜練、1か月にOFFが1、2回ほど。それでも時間が足りない。

しかも、ハードワークするが故に、怪我人が出てしまったりして本当に思うようにいかない代でした。

そして3部トーナメント決勝、山梨学院との最終試合。

ぼくはみんなに謝らないといけないことがあります。

4ピリ残り7分で出場したときです。

ぼくはプレー中に筋挫傷(通称:ももかん)を同じ右太腿に2箇所受けました。

「ただのももかんでしょ?」と思う人が大半だと思います。

でも1年生の頃に、同じ筋挫傷で3か月チームを離脱していた経験があり、その時と同じ痛みがあったため、かなり危機感を覚えました。

「2週間後の早慶戦までに治らないかもしれない。」

ももかんを受けた瞬間に一瞬そんなことを考えていました。

本当にすみません。

ただそれだけ足の状態は悪かったということなのです。

早慶戦と山梨学院戦を天秤にかけたとき、早慶戦に出るならすぐにベンチに引っ込むべきでしたが、ぼくは痛いことを周りに気づかれないようにして試合に出ることを選びました。

なぜなら、ぼくにとって試合に出ること自体が当たり前ではなく、また悪い雰囲気を変えてこそ4年生がコートに立つ意義であると考え、それが誠意だと思ったからです。

それからのプレーは、試合後に足がどうなっていようが気にせずに、ぼく自身の役目に「徹」しました。

(オータムカップでの経験は何にも変えがたいものになりました。)

「足が動くうちに…」

もちろん負けたくなかったですし、試合終了まで諦めたくなかったです。

ぼくはシュートを積極的に打つ選手でなければ、ボールを長く持つ選手でもありません。

でも、自分の持ち味であるスティールとディフェンスプレッシャーだけは誰にも負けたくない。

なぜならそれがぼくの存在価値であり、ディフェンスから慶應に流れを呼び込むことがぼくの役目だからです。

そして試合後には最善の処置を施しましたが、案の定、次の日には足が曲がらなくなっていました。

それでも2週間後の早慶戦に向けてリハビリに取り組み、試合に出られるように全力を尽くしました。

「試合に出て欲しい。」

そう言ってくれた人が何人もいてくれて、本当にぼくは幸せ者だなと思いつつも、気持ちとは裏腹に足は曲がるようになりませんでした。

医者の方からは、動けるようになるまで1か月かかると言われたときは絶望しました。

そして早慶戦に出ることが4年間の目標だったぼくにとって、部活動に入った意義とは何かをずっと考えさせられました。

でも、ぼくが4年間を通じて出会った人たちや、チームメイトがくれた「宝」に比べれば、ぼくの悩みなんてちっぽけなものだと思うと気持ちが楽になり、チームのために尽くそうと思えるようになりました。

早慶戦の話は、ほかの同期が書いてそうなので省きます。

でもこれだけは言わせてください。

「届かない壁ではなかった。」

1部と3部の差があったとしても、ぼくらがやってきたことは間違っていなかったということです。

下馬評なんて覆してやればいい。

後輩たちは自信を持ってこれからの練習に励んでほしいです。

4年間をかけてチームメイトがくれた3つ目の「宝」。

それは「チーム愛」です。

(チーム一丸となって戦った早慶戦。短い時間でしたが最後にはコートに立つことができました。)

「楽しさ」「悔しさ」「悲しさ」は幸せの者の証

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

「チームファースト」「友」「チーム愛」。

この3つは、同期・先輩・後輩がくれた「宝」の中でも代表的なものです。

書き出せばもっともっとあります。

そしてぼくの4年間の「宝探し」に肩を並べて付き合ってくれた同期には感謝してもしきれません。

その旅の途中で起きた数々の出来事での「楽しさ」「悔しさ」「悲しさ」などの無数の感情は、全部ひっくるめて「幸せの者の証」です。

ありがとう。

これで16年間のバスケ生活も終わりを迎えます。

色んな心残りはあるけれど後悔はありません。

その心残りは後輩に託すことにして、ぼくは社会人としてスタートします。

バスケを通じて得た経験を胸に精一杯頑張ってみようと思います。

お世話になった皆さま、これまでありがとうございました。

そして、これからもよろしくお願いします。

(最後まで応援してくださった皆さん。ありがとうございました。)