苦難の先に -町村真子

慶應義塾大学法学部法律学科4年ならびに体育会女子バスケットボール部の町村真子(CN:ハル)と申します。4年前、入試直前のこの時期に、当時の4年生の引退ブログを塾の自習室で読み、それを勉強のモチベーションとしていた自分が、とうとう引退ブログを書く立場になったかと思うと時の流れの速さに驚かされます。拙い文章ではございますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。 

私のバスケ人生のスタートは少し変わっています。場所は日本ではなくタイのバンコク。父の転勤に伴って家族で一年間だけ住んだタイで、10歳の時にバスケと出会いました。きっかけはスラムダンクを読んで面白そうだと思った、という非常にありきたりなものです。しかしタイでは当然地域のミニバスチームなどなく、学校のクラブ活動も5年生からと決まっていたため、住んでいたマンションの片隅にあった本当に小さなバスケットコートで練習を始めました。コーチは中学時代バスケ部だった父、練習相手は当時中学1年生の兄。平日は放課後に兄と1対1をして、週末は少し大きなコートがある公園に遊びに行く。半年程そのような生活をした後、5年生から学校のバスケサークルに入り、さらに休み時間のバスケットボールの使用が可能になったので、授業時間以外は本当にずっとバスケをしていました。40度近い炎天下で毎日何時間も屋外のコートにいたため、数か月後に日本に帰国した時には、人が変わったかのように真っ黒に日焼けしていました。 

帰国してから少し経った頃、近所のミニバスチームに入りました。所属していた期間も1年と短く、また私立の学校に通っていたために参加できない練習や試合もありましたが、バスケの基本的な技術と楽しさを教えてもらいました。 

中高は一貫校で、練習時間は1日1時間半、中学からバスケを始める人も多く、簡単に言うと超弱小校でした。多分一生忘れないと思いますが、入部1か月後に初めて出場した公式戦で、特に強豪校でもない相手に127対12で負けました。それくらい弱いチームでした。 

そんな環境で、中学の入部から高校の引退までずっと試合に出させてもらい、オフェンスもディフェンスも全部自分がやって、チームを勝たせなければと思ってプレーをしていました。全体練習が短い分、休み時間の自主練を必ず毎日行ったり、部活とは別でスクールやクラブチームに通ったり、できるだけ多くの時間をバスケに使いました。結果的に最後まであまり勝てるようなチームにはなれませんでしたが、自分の努力次第でチームの勝敗に大きな影響を与えることができる、非常にやりがいのある環境であったとも思います。また、引退後も「まだまだ自分はこんなものではない」という気持ちが強く残り、大学に入っても絶対に体育会でバスケを続けようと心に決めました。 

バスケの「楽しさ」を再発見した1年目

そして迎えた大学1年生、コロナの影響で対面での練習ができない状況で入部しました。しばらくはオンラインでのトレーニングとミーティングの日々が続き、やっと練習を開始できたのは7月になってからでした。しかし、そんな最初のシーズンはとにかく「楽しい」の一言に尽きました。 

初めて一緒にプレーするような上手な人たち、初めて知るスキル、用語、セットプレー。とにかく毎日が新鮮で、自分の技術も知識も毎日少しずつ成長しているのが実感できて、もっと知りたい、もっと練習したい、とバスケが今までの何倍も大好きになりました。当時の私はチームの中で一番下手で、もちろん試合に出られる立場でもなく、怪我も多かったため、入部早々試合に出て活躍する同期を見て、悔しい思いもたくさん経験しました。自分より上手い人しかいない環境で、それまでとはプレースタイルを変えなくてはいけないのは分かっているのに何をしたら良いか分からない、そんなもどかしさもありました。それでも、そんなネガティブな気持ちを吹き飛ばしてしまうほどに、とにかく楽しい日々でした。また、このシーズンに限った話ではありませんが、自分が出ていない試合でもチームが勝てばこんなにも嬉しいものなのか、と驚くほどにチームのことも大好きでした。 

2年生の出だしは順調でした。少しずつチームプレーにも慣れ、スキルアップも見られ、もう少しで試合に出られるかもという立場になりました。しかし、そんな矢先にプレーとは関係のないところで怪我をしました。練習に向かう途中、自転車で転び、右手首を骨折したのです。しかし私には落ち込んでいる暇はなく、すぐに切り替えて治療とリハビリに専念しましたが、そのシーズンは完全に棒に振りました。あの怪我さえなければ、と何度後悔をしたかわかりません。2か月ほど離脱した後どうにかリーグ戦中には復帰をしましたが全く戦力になれず、2年目もチームの応援に徹する形でシーズンを終えました。 

ただ、このシーズン中に当時の4年生に与えてもらった対戦校のスカウティングという役割が、チームに対する新しい貢献方法を教えてくれました。実際に試合の結果に結びつくことは難しいですが、プレーできない期間にも、少しでもチームの役に立てている実感を得られたこと、そして多くのビデオを見ることで自分のバスケIQを伸ばせたことはとても嬉しかったです。これを機に、スカウティングという仕事は私の中で非常に重要な役割になりました。 

3年目のシーズンは最悪な始まり方でした。オフシーズンに少し気を抜いて体重が増えてしまったのを、シーズンインしてから減量しようと、正しい知識もないままに食事制限を行ってしまいました。その結果、運動するためのエネルギーが足りず、練習の序盤から疲労で思った通りに動けない状態になってしまったのです。それまで得意だったラントレも、毎回のように最下位になりました。頑張ろうと心に決めていたディフェンスも足が動かず、チームの足を大きく引っ張るようになりました。原因が食事であると気付くまでの数週間の練習は、今まで経験したどんな追い込み練習よりもきつく、気持ちに対して身体が全く付いて来ないのも精神的につらかったです。食事を改善するようになってからはすぐに元通りに動けるようになりましたが、それまでの期間で私はチームメイトからの信頼を完全に失っていました。今までどんなに下手でも、できないことが多くても、頑張れることを評価してもらえていたのが、急に頑張れなくなったのだから当たり前です。下手なりに一番頑張らなくてはならない基礎練期間に、はたから見れば手を抜いているようにしか見えなかったと思います。そしてそのままシーズン終盤まで試合に出られませんでした。

3年生でのこの立場は、それまでよりもずっと辛いものでした。2年生までは、なんだかんだ怪我のせいにしてみたり、まだ下級生だからと自分を納得させてみたり、色々と理由付けをしていました。しかし3年生になってからは大きな怪我をすることもなくずっとプレーし続けることができていて、それでも試合に出られないとなると、ただただ実力不足という現実を突きつけられた状況でした。 

そんな状況で始まったリーグ戦、ベンチにも入れなかった試合が一度ありました。あの時の気持ちは言葉では形容しがたいですが、今でも思い出すと涙が出ます。心がぽっきりと折れ、それまで考えたこともなかった、部活を、バスケを、辞めるという選択肢が自分の中で急激に大きくなりました。考えてみるとこれが人生で初めての挫折だったように思います。幼稚園から高校までエスカレーター式の学校に通い、初めての大学受験も第一志望に合格しました。自分で言うのもなんですが、割と要領が良い方なので、やろうと思ったことができないという経験をあまりしたことがありません。だからこそ、何よりも好きなバスケで自分の思い通りの結果を出せないということが悔しくてたまりませんでした。そんな気持ちのまま何もできずに3年目も終えました。 

ここまで読んでいただいた方はすでにお気付きだと思いますが、私は試合に出るということに強いこだわりがありました。それは高校までの環境が原因なのか、もしくはもともとの性格なのかわかりませんが、とにかくプレーヤーとして入部した以上は絶対にプレーでチームに貢献できるようになりたいと思っていました。もちろん、試合に出られなければ価値がないとか、試合に出られればそれだけで良いとか思っていたわけではありません。たくさんの先輩たちが、試合に出られなくともチームに貢献する方法はいくらでもあることを示してくれましたし、下級生の頃の私はそんな先輩たちに本当に助けられてきました。毎年チームから気持ちが離れることなく楽しくバスケができていたのは、間違いなくそんな先輩たちが支えてくれたからです。本当に心から感謝しています。それは重々承知の上、それでも諦めきれない自分がいました。きっと私は誰よりも、私自身の可能性を信じたかったのだと思います。 

そんな中で3年生のシーズン終了後、最後の1年をどう過ごそうか考えていた時にふと、このチームは下級生の頃から上手な人はずっと試合に出ているけど、それ以外の人はずっと試合に出られないまま引退することが多いなと思いました。誰でも入部できる部だからこそ、入ってくる人のレベルもさまざまで、入部時点でその差が大きいのは当然です。しかし、その差のまま4年間を過ごすことしかできないのであれば、今いる試合に出られない後輩たちやこれから入部してくる強豪校出身ではない未来の後輩たちは、このチームに希望を持てなくなってしまうのではないか、そう思いました。そして最後の一年の目標が決まりました。特別な才能やセンスがなくても、弱小校出身でも、入部した時一番下手でも、努力次第で試合に出られるようになることを証明すること。そしてその姿を後輩たちに見せること。 

始まったラストシーズン、格好良い目標を立ててはみたものの、結果は正直微妙なところでした。春シーズンの序盤はスタメンとして起用してもらいました。この頃は3年間練習してきたことをコートで発揮できることがとにかく幸せで、大学生になってから初めてきちんとバスケットボールができているような気持ちでした。しかし格上相手や接戦では役に立たずベンチにいることが長かったですし、徐々にプレータイムも減り、早慶戦では出番はほんの数分、点を取るどころかシュートを打つこともなく終わりました。ここでも一度心が折れかけ、プレーヤーを辞めることも考えました。 

最後の早慶戦

夏のオフでは本当にラストチャンスだと思い、シーズンインから周りと差を付けられるよう、自主練でのフットワークや走り込みを増やしたところ、足を痛めてしまいました。これが原因で練習再開後、数日間練習を見学し、それ以降は引退まで毎日痛み止めを飲みながら恐る恐るプレーしていました。リーグ戦が始まり、最初の何試合かはベンチメンバー全員で交代しながら出るような試合がありましたが、それが終わって同格くらいのチームとの試合になると、やはり私の出番はなくなりました。 

しかし同時にチームとしても、1試合でも負ければ2部昇格という目標を達成できないという崖っぷちに追い詰められている状況になりました。もはや自分が試合に出たいなどと言っている場合ではありません。チームとして目標を達成すること。それ以上に重要なものなどありませんでした。ここで私は初めてエゴを捨てることができました。今までもチームの勝利を願っていたのは事実です。前述したように自分が出ていない試合でチームが勝てば心から嬉しいし、負ければみんなと一緒に涙を流して悔しがっていました。それでも常に心のどこかに「あの中に自分も入りたい」という思いがあった気がします。しかし、もうそんな気持ちは1ミリもなくなり、ただただチームが勝つために自分ができることに専念しようと思う自分がいました。試合に出るメンバーのリバウンドを拾い、対戦相手のスカウティングを入念に行い、練習中はスタメンの練習相手として全力でプレーする。自分でも驚くほどにチームのことだけを考えていました。 

なんとか2位でブロックリーグを終え、順位決定戦に進んだものの連敗。そして迎えたリーグ戦最終週、突然また試合に出るチャンスをもらいました。皮肉なことに、試合に出たいとあれだけ願っていた時には来なかったチャンスが、試合に出ることを諦めた瞬間に巡ってきたのです。1試合でも負ければ入替戦に出られない状況の中、とにかく自分にできることを全力で出し切ることに必死でした。最終的に3部1位、2部昇格を果たしたチームに対して、最終戦で個人として15点取れたことは私にとって大きな成長でしたが、チームとしてはここでも2連敗を喫してしまい私たちのリーグ戦は終わりました。 

シーズンの最初に立てた目標を私は達成できたでしょうか。私の姿は後輩たちにとっての希望になれたでしょうか。正直それはわかりません。何か劇的な活躍をしたり、チームの勝利を決定づけたりするようなプレーヤーになれたわけではありません。確かに自分の中でのやり切ったという想いや4年間続けてよかったという気持ちはありますが、それはただの自己満足かもしれません。最後の一年、副将という立場でもありましたが、そこでも何も特別なことはできませんでした。主将のイチが一人で何でもできてしまうからこそ自分の役割にはとても悩み、結局4年生として当たり前のことしかできなかったように思います。私はチームに何か残せたのでしょうか。 

振り返ってみると辛いこと、悔しいことの方が圧倒的に多い4年間でした。バスケが好き、楽しいという気持ちだけでは、段々とやっていけなくなりました。3年生でベンチから外れたときは記念館で一人、大号泣しました。4年生の早慶戦後は自主練にも行きたくなくて、チームメイトの顔を見るのが怖くて、一日中ずっと動悸がしている日もありました。それでも、そういう経験をしてもなお、このチームでバスケをやっていてよかったと思えます。そしてそんな私の姿を見て少しでも心を動かされた人が一人でもいてくれたら幸せだなと思うのです。 

個人としてもチームとしても集大成となった六大学対抗戦

ここまで長々と自分語りをしてきましたが、最後に感謝を伝えたい人がたくさんいます。 

OB、OGの皆様 

4年間たくさんのご支援、ご声援本当にありがとうございました。特に最後の1年間はすべての試合を有観客で開催でき、毎回多くの方に応援していただいていることを実感できました。これからは自分もOGの一人として後輩の応援を精一杯行ってまいりますので今後ともよろしくお願いいたします。 

社会人スタッフの方々 

4年間、時に厳しく、時に優しくご指導いただきありがとうございました。4年生になってからは特に、私たちのためにどれだけご尽力くださっているのかがわかり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。個人的にも、スタッフの方々のふとした言葉に救われることが多く、そのおかげでやり切ることができました。 

先輩方 

何もチームに貢献できなかった私が当たり前のようにチームにいられたのは先輩たちが居場所を与えてくれたからでした。毎年、先輩たちが作るチームが大好きで、バスケをもっともっと大好きにさせてくれました。引退する時にもらった手紙はつらい時に何度も読み返してそのたびに活力をもらっていました。 

後輩たち 

私はあまりみんなにとって良い先輩じゃなかったと思う。普段からうるさいし、余計なことで怒られるし、プレーでもたくさん迷惑かけたよね。1年前に思い描いていたような細やかな気遣いができるような副将にもなれなかった。そんな私に「ハルさん!」と屈託のない笑顔で話しかけてきてくれて、たくさん一緒にバスケをしてくれて、ありがとう。これからのみんなを誰よりも心から応援してます。 

同期へ 

私たちはきっといわゆる仲の良い同期ではなかったよね。それぞれが自分の時間を大切にするし、練習後のごはんやオフにみんなで遊びに行くなんてこともあまりなかったけど、バスケやチームに対する思いは全員同じだったと思う。たくさん迷惑かけたと思うけど見放さずにいてくれてありがとう。4年間誰一人として欠けることなく5人で走り抜けられて本当に良かった。これからもよろしくね。 

家族へ 

約12年間応援とサポートありがとう。直接は言えないのでこの場を借りて言わせてください。 

ずっと単身赴任で遠くから応援してくれていた父。バスケと出会わせてくれて、教えてくれてありがとう。部活もクラブチームも好きなだけやらせてくれてありがとう。帰国のたびに試合を見に来てくれて、最後の最後に活躍している姿を見せることができて本当に良かった。 

競技は違うけど体育会の先輩としてたくさんアドバイスをくれた兄。昔から誰よりも努力して部活に打ち込む姿勢を本当に尊敬してました。プレーヤーを続けるか迷ったとき4年間やり切れって言ってくれてありがとう。最後までやって本当に良かったよ。 

一番長く、一番近くで支えてくれた母。どんなに遅く帰ってもご飯を作って、お風呂を入れて待っていてくれて、どんな悩みも愚痴も聞いてくれて、つらい時マックスと一緒に出掛けさせてくれて本当にありがとう。泣きすぎて記念館から帰れなくなった時に、日吉まで迎えに来てくれたのもすごく嬉しかった。 

家族のサポートがなければ最後まで続けられませんでした。これからもまだまだ迷惑かけるけど、いつか絶対に恩返しするので待っていてください。 

他にも、最後の早慶戦や六大学対抗戦に応援に来てくれた中高の友達、幼馴染、挙げればきりがないほどたくさんの人たちに支えられて成り立っていた4年間だったと強く思います。これまでお世話になったすべての方々に、改めて感謝申し上げます。 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。自分としても何が伝えたいのかわからないようなまとまりのない文章となってしまいましたが、最後にもう一度、一番伝えたい事を書いて終わりとさせていただきます。 

バスケをやっていて本当に良かったです。