脇役 -河内英慧

「脇役」

慶應義塾大学経済学部並びに体育会女子バスケットボール部4年の河内英慧(CN:ヒマ)と申します。拙く長い文章ではありますが、この4年間の想い、そして学びを綴らせていただきます。非常に自分語りの内容となっていますが、読んでいただけますと幸いです。

[主役時代に夢見た体育会生活]

中学高校時代はキャプテンとして、時にはエースとして、ありがたいことに常に私は「主役」でした。「主役」の私は、バスケが大好きなコーチに恵まれ、バスケが楽しくてたまりませんでした。気がつけば、学校にいく目的もバスケのためで、強豪校ではありませんでしたが、勉強そっちのけで部活に没頭していました。努力をしない仲間の気持ちは理解できず、自分が試合で活躍をしてチームを勝たせることが全て。試合に出られない人の気持ちも分からない、盲目的な人間でした。

そんな私でしたが、高校生時代に前十字靭帯断裂の大怪我をしてしまいました。一種の挫折でした。もう一度スポットライトを当てられる「主役」になりたい、きっとそのような思いで、誰にでも門戸が開かれているバスケ部があり、且つ、将来の幅広い選択肢が得られる慶應義塾大学を目指しました。

中学、高校とバスケしかせず、鉛筆一本持ったことがなかった私にとって、慶應義塾大学はレベルの高い大学でした。案の定、現役時代は不合格。しかし、「もう一度バスケがしたい」。そのモチベーション一つで、浪人を経て、慶應義塾大学に合格しました。入部を決めていた私は、すぐに練習の体験をさせていただきました。その時、レベルの高さ、自身の衰えに焦りつつ、「いつか試合に出て、『主役』になるんだ!!」、その希望と共に入部を決めました。

[「他人」の下級生時代]

1年生の時は、頑張ろうという気持ちに反して、怪我を複数箇所繰り返し、また、高校時代に痛めた膝もかなりの限界を迎えており、満身創痍の日々を過ごしていました。その一方で、同期の中には既にチームの中心的な存在として活躍している仲間もいました。私はコート外でひたすらリハビリをしながら、成長していく仲間を見る日々。「主役になりたい」その想いが強くあったからこそ、怪我をしても痛みを我慢し、無理にプレーをした結果、また怪我をする。そんな悪循環が続いていました。リーグ戦もベンチに入ることができず、コロナ禍で感染対策のために会場にも入れない時期が続きました。先輩方は、「いつもお仕事ありがとうね。」と何度も何度も感謝の気持ちを伝えてくださいました。下級生の自分にも目を向けてくださった当時の4年生には本当に感謝しかありません。しかし当時の私は、チームの勝利も心から喜べずに、チームをお客様気分で眺め、悔しい気持ちをただ押さえつけることで必死でした。チームに所属する以上、私は何かで組織に貢献したいという思いは強くありました。しかし、「試合で活躍することが全て」と思っていた私は、チームに貢献するためには選手としてレベルアップをすることが最優先だと考えていました。そのため、「『主役』になってチームに貢献したい。」という考えが自分の根底に強くありました。

希望と共に入部した1年目

2年生になった時、今までの怪我を完全に治し、怪我をしない体にして復帰をしようという方針の理学療法士の方の元、数ヶ月のリハビリに励みました。夏練が始まる時にコートに戻って、今までで一番長く全ての練習に参加できました。練習自体は苦しかったのですが、バスケができることが幸せで楽しくて仕方がなかったです。まだまだレベルは足りないけどここから頑張って這い上がるぞ!!そのような思いを持っていました。しかし、夏練が終わり、いよいよリーグに向けた練習が本格化する時に悪夢が訪れました。またしても怪我をし、手術やリハビリが必要になりました。絶望の淵にいるような感情を味わいましたが、もう一回コートに立ってバスケがしたいという思いからすぐに切り替えて必死にリハビリに通っている自分がいました。

この時は本当に自分のことでいっぱいで、チームのことなど頭にありませんでした。一刻も早く復帰しなきゃ、バスケへの熱い想いがあったからこそ、自分を苦しめていたのだと思います。1年生と同様にチームを他人事として捉え、悔しい気持ちを隠すことに必死でした。そんな時に先輩に「怪我を言い訳にしてない?チームのためにもっとできることがあると思うよ、もっと出来る、信じてる」との言葉をいただきました。当時は、自分はこんなに苦しんでいるのに、頑張っているのに、とその言葉を受け入れられずにいました。しかし、とりあえず自分ができることを頑張ろうと行動に移しました。練習にも入っていない私が偉そうに発言しても、調子に乗っていると思われないかな、、、失敗や周囲の目線が怖かった私は自分が行動をすることに不安がありましたが、積極的に発言をする、1人1人に声をかけるなど、以前と頑張り方を変えることを意識しました。すると、以前よりもチームのために動けるようになり、先ほどの先輩の言いたいことの意味が理解できました。私は自分の頑張りを自分に向けることに精一杯で、チームのために頑張れる人間ではなかったのです。チームを俯瞰した時に、試合に出られなくても頑張っているチームメイトが沢山いました。スタッフとしてチームを支えている仲間がいました。色々な立場で、自分なりの方法でチームのために頑張る仲間がいました。自分で気づくべきだったと思うのですが、その時気づかせてくれた先輩には感謝しかありません。バスケだけが上手くなりたいなら体育会以外の組織でもできます。体育会とはどのような場所か。それは組織の中で自分ができることを見つけて頑張ることだと、やっと気付かされました。チームのために頑張れていなかった自分に悔しさを感じると同時に、チームの目標に沿って行動ができず、「主役」どころか「脇役」でもない、もはや「他人」だった自分を初めて自覚しました。この気づきから行動が変わり、少しずつ自分がチームに対してどのように関わるべきかが分かった気がします。しかし、怪我のリハビリで練習を見られず、練習自体にも参加できていない私は、自分はまだまだチームにとって「他人」にすぎず、自分の役割を見つけることができずにいました。

チームでの頑張り方を学ぶことができた2年目

[「脇役」への転機]

手術をして数ヶ月程経った時に、プレーヤーとして復帰をすることができました。しかし、復帰してすぐに他の怪我を何度も繰り返し、練習に全く参加できない日々が再度続きました。その時、今までのように復帰をすることに前向きではない自分がいました。なぜなら、大好きだったバスケが怖くて仕方がないものになってしまったのです。気づけば、私はバスケが上手になるという目標ではなく、「怪我をしないで1日を終える。」それが自分にとっての日々の目標になってしまっていました。そして何よりも上級生になるにも関わらず、コート外でリハビリをし続け、時には練習を見られずにいる。チームに対して、何もできていない、もはや「他人」である状況が悔しくてたまりませんでした。その時の自分には、上級生になっても怪我を繰り返し、チームに対して満足のいく頑張りができない「他人」、そうなってしまいかねない未来がはっきりと見えていました。だからこそ、「次、怪我したらもう選手を辞めよう」とケジメをつけようと思ったのです。

しかし、そのケジメはすぐに訪れてしまいました。また怪我をしてしまい、長期離脱が必要となってしまいました。自分の中では区切りをつけようと思っていた私ですが、ダラダラと考えてなかなか決断できずにいました。なぜなら、今まで沢山支えてくれた親や応援してくれた恩師、友達に申し訳ないと思う気持ち、バスケ部に入部したいと思ってこの道を選択した自分を裏切ると思ったからです。

ですが、ずっと悩み続けていることはできず、怪我して数週間後、選手を辞める意思を固めました。その時、自身の選択の決定打となったのは、「他人」でしかない自分への劣等感でした。私は、自分が引退をする時にこのまま選手を続けても後悔をしそうだと思いました。自分の人生を長い目で見た時に、ただ苦しみの中で耐える4年間になってしまうのではないかという危機感があったのです。かといって立場を変えるという選択が、必ずしも良い方向に働くという保証がないのも事実でした。しかし、自分の満足の行くチームへの貢献ができるのはスタッフであると思いました。その時の自分はチームにおいて「主役」にも「脇役」にもなれていない「他人」でした。スタッフになることでチームのことを本当に考えることができ、「脇役」になれる。そのようなポジティブな理由でスタッフに転向すると決めました。

[「脇役」としての2年間]

スタッフに転向してからは、はじめての取り組み、はじめての立場に不安を感じることもありましたが、チームに貢献したい、その一心で行動をしました。私は、自分の怪我の経験などからトレーナーという役職につきました。トレーナーは役割が確立されてなかったため、コンディション管理やリハビリの付き添い、講習会への参加と自分にできることを模索しました。しかし、テーピングは同期のテンが巧みな手捌きでパパっと巻いてる中、ぐちゃぐちゃのテーピングの自分。この自分のサポートがチームの勝ちに繋がっているのかな、私スタッフ向いてないのかな、そう思うことも何度もありましたが、自分の悔しい経験から仲間のために沢山動けるようになりました。迷惑もいっぱいかけましたし、不器用な自分でしたが、このように沢山行動ができたのは、自分自身の挑戦をポジティブに捉えて下さった当時の4年生の方をはじめとするチームメイトのおかげだと思います。受動的で失敗を恐れていた私が、スタッフ転向を経て主体的に行動をし、チームの勝利を心から喜べるようになりました。その頃には、「脇役」に近づけたかもしれないと少し自信を持つことができました。

挑戦し続けた3年目

4年生になると、チームの勝利やチームの運営など、よりチームのことを考えることが多くなりました。残念ながら、トレーナーとして3年生の時から大してレベルアップはしていないと思っています。ですが、スポーツや医学の専門的な勉強もしていない、そんな自分がチームに何ができるかと考えた時に、「仲間に寄り添い、仲間の心・技・体の様々な面の成長をサポートできる存在になること」でした。私は決してバスケIQが高い人間ではありませんでしたが、選手とスタッフ、エースと補欠、怪我をした人、あらゆる立場を知っている人間でした。そのため、あらゆる人の気持ち、考えを理解することができる人間なのではないかと考えました。また、辛い時に寄り添ってくださったある先輩に自分自身助けられ、自分もそのような先輩になりたいと思っていました。だからこそ、仲間に寄り添い、仲間の成長をサポートできる存在になりたいと考えました。そして、そうすることで、仲間を成長させられるだけでなく、かつての私のようにチームにとって自分は「他人」でしかないと思う人が一人もいない環境を作ろうと思い、自分ができる行動をしました。お節介で口うるさいかも、この言葉をかけてよかったかな、直接コートに立ってチームの目標に貢献できていないことで、選手と違う葛藤や苦しみもありました。しかし、怪我から復帰していく仲間、今までよりも成長していく仲間、一声でキリッと変わる仲間。仲間たちの努力が実る姿を見ると、少しは力になれたと嬉しくてたまらない気持ちでした。試合でも我が身を捨ててチームを応援していて、人格が変わっていると言われることもありました(笑)そして、何よりも チームの勝利は心から嬉しくてたまりませんでした。

このように今まで以上にチームのために動く中で、チームが目標である2部昇格を達成できなかった時、悔しくてたまりませんでした。自分がもっとこうすればよかった、もっとできた。様々な思いが巡りました。スタッフに転向してよかったのか、自分がスタッフ転向をした時の問いが脳裏をよぎりました。リーグ戦が終わって、すぐはスタッフに転向してよかったのかは分かりませんでした。最後コートに立つ同期の姿は眩しくて、あそこに立っていたかったなと少しは感じる自分もいました。しかし、今はスタッフ転向をして良かったと心から思います。チームのために自分ができることを頑張れたこと、そしてチームの勝敗に一喜一憂できたことは、かつて「他人」だった自分からは想像できませんでした。また、引退の日に「ヒマさんがいたから頑張れました」そう言ってくれる仲間がいました。気を遣って言ってくれた言葉かもしれませんが、その時に、「他人」だった自分が「脇役」として周りに頑張る源を与えられていたこと、それだけでもスタッフになったことは「正解だった」と思うことができました。

仲間のために頑張った4年目

[「主役」でない4年間を通して]

「主役」でないバスケ人生を大学4年生で味わうことができたのは本当に貴重な経験でした。きっとそれを味わえなければ、与えられた役割をただこなす、盲目的な人間だったと思います。

チームとして結果を出す以上、誰かが主役で誰かが脇役で、その中で個々が自分の立場を弁えて、自分の役割を考えて行動をする必要があります。確かにやるからには主役になりたいというのは人の性でしょう。しかし、主役しか目指せない人はうまくいけば主役、それ以外の人は脇役にもなれない「他人」にしかなれません。過去の自分は主役を目指すことしか考えておらず、自分のチームにいる価値を見出すことができない「他人」でした。主役を目指す心も競技を続ける上で大切ですが、脇役に回ったときに自分ができることを全力でやることが必要なのだと学びました。与えられていない役割を模索することは非常に難しいですが、その中で自分ができることをし続け、自分の役割を見出すこと。一年生の時、受け身で殻にこもっていた私ですが、殻を破り、失敗を恐れずに主体的に挑戦できるようになりました。自分の捉え方の問題ではありますが、そうすることで「他人」ではなく「脇役」に成長できました。だから、偉そうに申し訳ないのですが、、、後輩たちはそれぞれの立場でチームのために、殻を破ってできることに挑戦をして欲しいです。チームのために頑張ろうとするその姿勢には絶対マイナスなことなどないと思います。

[最後に]

最後になりましたが、このような4年間を送ることができたのは沢山の人々の支えのおかげでした。本当はお世話になった全ての方への想いを各々お伝えしたいのですが、すでに長いブログが非常に長くなりそうなのでまとめさせて頂きます。家族、OB・OGの皆様、社会人スタッフの皆様、同期、先輩方、後輩のみんな、友人、保護者の皆様、本当にたくさんの方々に支えられました。本当にありがとうございました。今後社会人として、ここで得た様々なことを活かして参ります。そして今まで頂いた沢山のご恩をお返しできるように努めて参ります。今後とも何卒よろしくお願い致します。

長く、拙い自分語りの文章でしたが最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。今後とも体育会女子バスケットボール部の応援のほどよろしくお願い致します。