ラストブログ 用田昂大

「ひとりで生きていたならば」

はじめに

誠に僭越ながら自己紹介をさせていただきます。

慶應義塾大学法学部法律学科4年、ならびに体育会バスケットボール部所属の用田昂大と申します。

私は慶應義塾志木高等学校のバスケ部出身であり、先輩方の熱い想いが語られたラストブログに感動し、入部を決意した男であります。

高校時代は、シュート力が私の専売特許でして、大学一年時からその能力を買っていただき、時期早々に4年生との練習に合流することができました。最初は順風満帆のキャリアを期待していたのですが、どうやら私はシュート確率わずか7.7%のスポットシューターに成長してしまいました。波乱に満ちた体育会生活を送り、今は笑い話として思い出すことができています。

(もう少しだけ自己紹介をさせてください)

私のこの部での経歴は少し特殊でございます。

入部当初は、志木高の同期である藤島と一緒に早慶戦に出場する夢を追いかけ、選手として努力していました。しかし、大学2年生の3月に適応障害を発症し、選手を引退。大学3年生からは学生トレーナーとして活動しました。

他にも、部内では唯一の宴会担当として、合宿での「いただきます」と「ご馳走様でした」、乾杯の音頭などを務めさせていただきました。試合に出てチームに貢献するためにも、まずは自分自身の成功を目指した選手時代と挫折。仲間の助言でトレーナーとして自分以外の選手のために働くことを決断し実行したこと。そして、恥ずかしがらずに明るく元気な声を出すこと。

その三方面を経験できたことは、今後の社会人生活を歩む上で、大きな財産になったと考えています。

(3,4年BBQでの一コマ。縦横関係なく仲が良いのが慶應バスケ部の魅力です。)

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さて、4年間結果の伴わない時期の方が多かった気がしますが、その過程では、沢山の方々に「いいチームだね。」と言っていただくことができました。

私が高校3年時に入りたくて仕方がなかったこの部活は、やはり魅力的な組織であると再認識した一方で、在籍した4年間では残念な理由で部を離れる選手が多かったようにも思えます。大学には、資格勉強や海外留学をしている人もいれば、インターンで活躍している人も沢山います。そんな中で私たちは、バスケットボールというスポーツを遊びではなく真剣にやっているので、「キツイのによく頑張ってるね」と言われつつも少し馬鹿にされているように感じたことも多々ありました。

それでも、今はこの4年間をバスケ部に捧げてきて良かったと、そう強く感じています。

誰から何と言われようとも、体育会での活動の真の価値は、それを4年間続けた者にしか理解されません。そのため、一度この部に興味を持ってくれた子に対して、私は最後まで続けて欲しいのです。

そんな想いも込めて…

私のラストブログでは、これから慶應バスケ部の未来を背負っていく後輩達が、順風満帆から程遠いであろう現実に向き合った時、これらの私の話が準備運動になることを切に願って綴らせていただきたいと思います。

(当初より書き溜めていた各方面への感謝のメッセージは字数の関係もあり省略させていただくことにしました。直接お会いしてお伝えすることを条件に、この場では簡単に、支えてくださった全ての方々に感謝申し上げます。誠にありがとうございました。)

それでは、前置きが長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

最も苦しかった時の話

人はどういうときに最も苦しいのでしょうか?以下は本に書いてあった内容ですが、一番しっくりきたので引用させていただきます。

『それは、練習して勉強して、死ぬほど忙しいときでは決してない。仲間やコーチ、周囲の評価が厳しいときは、辛いのは間違い無いけれども、それも最も苦しいときではない。人が最も苦しいのは、自己評価が極端に低くなっているとき。

つまり、“自分自身で自分の存在価値を疑う状況に追い込まれたとき”だ。

周囲の塩評価も、自分で自分を疑い始める導入に過ぎない。理想とのギャップから徐々に重くなってくる焦燥感や、周囲の期待に応えられない時に刺すように冷たい無力感。これらは自己肯定感を容赦なくどんどん削ってくる。』

このような、自己評価が極限にまで下がった時期が、私にも何度もあったことを話しておきたいと思います。特に2年生の3月、この時期は間違いなく私にとって最も苦しかった時期でありました。

選手としての限界を決めた日

中学高校と、それなりに高いレベルでバスケットボールをプレイしてきましたが、どのカテゴリーにおいても私は最初から同期間で高く評価されることはありませんでした。徐々に評価を上げてきた今までのバスケットキャリアと比べ、大学での、「評価が下がっていく感覚」と「同期に抜かされていく現状」は私にとって非常に苦しいものでした。

しかし、私はこのような困難に屈するつもりはありませんでしたし、そのおかげで新たな気づきもありました。それは、「仲間と勝利して喜びを分かち合いたい」というゴールが私の中で明確になり、その達成に向けた手段が、自身の活躍だけでなく、他の選手をサポートすることも含まれるということです。

それからは、自身の努力が「他者を抜き返すため」ではなく、「試合に出る選手が最大限活躍できるようにフォローするため」に変わっていきました。例えば、自分の血のにじむようなシュート練習も、自分のためではなく、あいつのためにも頑張りたい、そう試合に出る選手の原動力となることで勝利に貢献できると信じました。しかし、このマインドがより一層私を苦しませ、退部が頭をよぎるまでに追い込むことになったのです。

ここで後輩たちには、勝負の世界で最初から友情や親切を期待するのは単なる「お人よし」であり、淘汰される「負けのマインド」であることを覚えておいて欲しいです。選手は試合に活躍することが仕事であり、選手をサポートするのはスタッフの役割です。全員が目の前の敵を倒すことに本気になる競争力こそがチームを最も強化します。

そのことにようやく気づいた私は、諦めずに再出発を試みましたが、不幸にも、自分の意志に反して身体がついていかなくなりました。その頃から、高熱と激しい頭痛に悩まされる日々を過ごすことになります。完全に身体が故障してしまいました。部活の時間になると症状が出るので、部活が関係していることは自明でしたが、それを認めたくない私は、脳のMRI検査をはじめ、有名な霊媒師に見てもらったり、北海道に旅行に行ったりして症状の改善に努めました。

(気が済むようにと、私のわがままに付き合ってくれた両親には本当に感謝しています。)

しかし、一向に症状は改善されず、むしろ、目眩がするようになったり、悪夢にうなされるようになったり、もう前のように部活でバスケをしている自分を想像することはできなくなりました。

(当時父と訪れた北海道の美瑛町です。一生忘れられない景色が広がっていました。)

迷ったときは厳しい方を取れ

部活に行けない日々が1ヶ月も続き、そろそろ退部することが頭の中で固まってきました。授業も始まり、バスケ部は学ランを制服として着用していますが、練習もしていない私は、当たり前のように私服で登校しました。

キャンパスで学ラン姿の同期を見つけると、あんなに馬鹿にしていた学ラン姿がこれほどにもなく羨ましく感じました。 すれ違わないように通路を選び、部活の時間になったら体温計を取り出して、トレーナーに報告する。

もうこんな生活は耐えられませんでした。

しかし、この病の核心は、周囲からの敵対的な反応や厳しい評価からではありません。防御不能な凶悪なストレスを降り注いだのは、他でもなく己の価値を疑い始める自分自身にありました。

では、「その状況をどう乗り越えたのか?」というのが今回伝えたいメッセージですが…

そういった苦悩が続いたある日、「結局は向き合わなければ何も解決できないんだな」と思ったのです。そのとき、私は1ヶ月ぶりに体育館に向かうことを決意しました。現状を打破する鍵は、「再び選手としてバスケットボールに向き合うこと」だと、ずっと理解していたからです。

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しかしその朝、私は体育館に本当に行きたくありませんでした。行くのが怖かったのです。なぜならば、ただ体育館に行って何事もなかったように済ませるのは許されないことがわかっていたからです。

「やっぱ全て投げ出して辞めようかな。」正直もう逃げたい気持ちに溢れていました。                                                                                                             

それに、きっと私は部活でなくても楽しめる。そこでそこそこの経験はできるだろうし、それでもいいのではないかと思いました。下手なのにここまでよく我慢した。こんなに苦しい思いもしたし、もういいのではないかという声が頭の中でグルグル回りだしました。

しかしここで戦いから逃げたらどうなるか?

一瞬だけはその方が楽かもしれない。でも、もはや人生で本気でスポーツに取り組むチャンスは二度となく、ただ観客の一部となり、この仲間と泣いて喜びを分かち合う可能性は完全に消えるだろう。両親に散々無理をさせて一人暮らしまでしてやってきたのに、元気な姿も見せられない。

そうだ。ここで逃げたらずっと「逃げた記憶」が付き纏う人生になる。

「それは嫌だ!!!」

今まで自分の中で大切にしてきた何かが壊れる気がしました。二度と立ち上がれない気がして、ギリギリまでベットの上で毛布を被って悶々と考えていた私は、ついに決心しました。

『迷ったときは厳しい方を取れ!』

人間の脳は楽なほうがよく見えるように常にバイアスをかけている。だからハードな道が正解だ。どうせ倒れるとしてもせめて進むべき正しい方向を向いて前のめりに倒れてやる!それが私らしいと思いました。完全に覚悟を決めた私は、揺るぎない信念を胸に、体育館に向かいました。もちろん、体調も優れなかったし、ランニングを始めた瞬間に強烈な目眩に襲われ、倒れそうになってしまいました。

「そんなうまくはいかないか」と、その日から再び部活には行けなくなりましたが、不思議なことに、みんなとまたバスケがしたいという気持ちはますます強くなっていきました。

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それから数日経って、同期で主務の林に「どうしたらいいかわからないが、この部活でまだみんなとバスケがしたいんだ、少し話を聞いてくれないか」と連絡をしました。彼は後日、恵比寿に個室を用意してくれて、「なんでこんなとこにお前と2人でいるんだよ(笑)」と軽く冗談を交えながら、私は林に今までの自分の心境の経緯を話しました。

すると彼は、「引退する時にお前がチームにいないのはなんか違うと思うんだ、もう3年だし一緒にチームを作ろうよ」とスタッフに転向することを誘ってくれたのです。私はスタッフのことをとてもリスペクトしていましたし、選手が無理だからスタッフになりたいなんて口が裂けても言えるわけもなく、そんな考えすら持ち合わせていませんでした。

しかし、彼を含めた同期のみんなは、私が向き合うと決めた日にはと、帰る場所を密かに用意してくれていたのです。そのおかげか、散々私を追い詰めた病はようやく快方に向かい、私は2ヶ月ぶりに学生トレーナーとして部活復帰することができました。

本当に、夢のようでした。

(ここまでお付き合いいただきありがとうございました。まとめに入ります。)

選手とスタッフを経験して

結局、学生トレーナーに転向しても、苦悩は続きましたし、自分の存在価値について考えては、毎日追い込まれていたように思います。

しかし、選手時代と確実に違う点は、そんな辛い時期も私は毎日が本当に幸せだったということです。自分にとって安全でストレスの少ない道を選び続ける人は、運が良ければ幸せにはなれるでしょうが、それでは決して強くはなれないと思います。

私は、あの日逃げずに立ち向かったことで確実に強くなることができました。特に私は仲間のためになりたいという気持ちが強い反面、同期の一言に一喜一憂することが非常に多かったです。「なんでこんなことをしてしまったんだろう」「なんでこんなこと言われなきゃいけないんだろう」、自分の発言や行動、そしてどうしようもならない現状に、ご飯も食べられなければ、寝付けないで1人悔し涙を流すことしかできなかった日もありました。しかし、そんなとき私は自分にこう言い聞かせるようにしていたのです。

『こんな幸せでいいの?』

一度この環境を手放した身としては、自分のことではなく、仲間のために本気で悩み、苦しみ、怒り泣いているこの状況がたまらなく嬉しかったのです。それは、「ドM気質だから克服できる 」ということではありません。最悪なことになっても、それは最悪でないことがしっかりと理解できているから乗り越えられるのです。

部活終わりの並木道を、信じられないくらいゆっくり歩いて、それでいて渡れる信号を「これは無理だ」と立ち止まりくだらない話をする。こんな日常を当たり前のようにできる生活が、どれだけ幸せなことかを痛感しているからこそ、私はどんな時も仲間のために全力で駆け抜けることができました。

成功しても失敗しても、今よりも成長できる限りにおいては、実は何も大きな損はありません。そのことを知っていれば、たとえ絶望に直面しても、あなたもきっと笑えるようになると思います。

(私の同期は間違いなく最高で最強で日本一でした!4年間ありがとう!)

最後に

大変長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。慶應バスケ部は長い歴史の中で、強い時期もあれば結果が伴わない時期もあります。たまたま私たちは後者に当たりましたが、必ず再び強い慶應が現れると信じています。

結果を求めることも大事ですが、後輩たちには今後も、ひとりで生きていないからこそ得られる喜怒哀楽に一生懸命向き合って欲しいと思います。そして、「幸せは手に入れるものではなく、気づくもの」であると実感してくれたら嬉しい限りです。

このことを、ソッカー部に在籍する私の親友は「今を生きろ」という言葉で伝えていました。仲間とバスケに没入できる今という瞬間の連続を最高に楽しんでください。「強い慶應」がまた早稲田を倒す日を夢見て…

最後に後輩たちにはあえてプレッシャーをかけておきたいと思います。

次はお前たちだぞ。

「精一杯、顔晴れ!!!」

(大室師匠(現社会人トレーナー)、これからもよろしくお願いいたします。)