背番号4番を背負うとは -梅木 理沙

誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。

私、慶應義塾大学経済学部4年ならびに體育會女子バスケットボール部に所属しております梅木理沙と申します。よろしくお願いいたします。

女子バスケットボール部の引退ブログも第5弾にして、最後となりました。

第1~4弾全てを読んでくださった方、数回の方、このブログが初めての方…最後までお付き合いしていただけたら嬉しく思います。

昨年度、男子バスケットボール部の1つ上の先輩方が卒業ブログを書いていらっしゃいました。この1年間、そのブログを何度も読み返しながら、私自身、勇気づけられていました。

そんな先輩方のように伝えられる自信も経験もありませんが、自分なりに、さらけだして、想いを綴ってみようと思います。

慶應義塾のバスケットボールとの出会い

小学校4年生の時、人数が足りず試合に参加することができない!ということで、近所のミニバスのチームに、とりあえずは1日限定というお誘いで参加しました。それが、私がバスケットボールを始めたきっかけでした。

その後、内部進学だったこともあり、小学校5年生から部活として慶應義塾バスケットボール部に関わることとなりました。

小学校6年生の時、キャプテンになり、監督から頂いた言葉があります。

「4番のユニフォームに誇りを持ちなさい。そして、似合う人間になりなさい。」

バスケットボールにおいて、キャプテン・主将が4番のユニフォームを着ていることが多くあります。小学生の私には、誇りを持つ持たないほどのものでも、似合う似合わないなど考えるほどのものでもありませんでした。

それから、特別バスケットボールが上手いわけでもなく、突出したリーダーシップがあるわけでもなく、ただただ、いろんな偶然が重なって、中学・高校、そして大学と4度の主将を任せていただきました。

それ以降、学年が上がるたび、4番のユニフォームを着る誇りとは何か、似合う人間とはどんな人なのか、考えるようになりました。

小さかったユニフォームも大きくなりました

大学バスケットボール

入学当初、どの組織で、どの立場から、バスケットボールに関わるのか、悩む時もありました。あの時、なぜ體育會という組織を、なぜ選手という立場を選択したのか、明確な理由は、今でもわかりません。引退してみて、振り返る中で、組織や立場などは重要ではなく、この選択をしたことで出会えた人たちがいて、それだけで私はよかったのだと心から思います。

大学1年生。

高校生の時から、憧れていた先輩のいるチームでバスケをすることができました。辛いことや悔しいことよりも、一瞬一瞬も見逃したくなくて、追いかけるので精一杯だったのを覚えています。

大学2年生。

結果どうこうよりも、主将のために、4年生のために、頑張りたい、何か少しでも肩代わりしたい、力になりたい。そんな気持ちでコートに立ち、何もできない無力さを実感しました。私の中では、想いの詰まった1年間でした。

大学3年生。

怪我の多い1年間でした。出場することができたのは、1年間で、たった3試合でした。

どこからが無理をしていて、どこからがサボっているのか。無理をするのはチームのためなのか、ただの自己満足なのか。痛いのか、動けるのか。

線引きをするのがすごく難しく、何でいつも自分なんだろう、何で今なんだろう、なんて思う時期もありました。そのように考えてる時点で、いつまでも成長しないのになあ、なんて今では思うことができています。

それでも、比べものにならないくらい、怪我で悔しい思いをしている先輩もいらっしゃいました。その人のためなら、そして、3年間お世話になった4年生のためなら、悔しいことも受け入れて、4年生には昇格することだけに集中できる環境をつくれるよう、全てをやろう、そう思いました。

たくさんのことを教わりました

大学4年生。ラストシーズン。

この1年間を語る上で、あらかじめお伝えしたいことがあります。

こんなに苦しかった、辛かった、もう嫌だ。

という話ではありません。

こんなにも、「学生最後の伸びしろ」に出会えて、恵まれた環境で、最高の1年間だった。

ということを伝えたくて、そのためにも、飾らず、あえて全てをさらけ出してみようと思います。

話は少し変わりますが、私は、映画館での映画鑑賞が大好きです。

少し季節はずれにはなりますが、好きな映画は『クリスマスキャロル ロンドンに奇跡を起こした男』という映画です。ファンタジーで何度も気軽に観ることができる素敵な物語です。

その映画の題材になっているクリスマスキャロルの作者チャールズ・ディケンズはこんな言葉を残しています。

「病気や悲しみも人にうつるが、笑いと上機嫌ほど、うつりやすいものもこの世にない。」

この言葉が今シーズンの私のモットーでした。

どんな時も、追い込まれても、笑顔で、上機嫌で、明るくい続ける。悲しむなら、まず先に上機嫌でいる。そんなことを心に決めていました。

しかしながら、そんな簡単にうまくはいきません。もちろんずっと笑っていられても怖いですし。

それ以降、練習後、最寄り駅から自宅までの十数分間に必ず自分自身に問いかけるようになりました。

「自分が主将で良かったのか、誇りを持つとは、似合うとは、なんなのか。」

答えの出ない問いを自分自身に投げかけては、勝手に落ち込む毎日でした。

今となっては、主将というのは、ただの役職の名前で、誰にでもできる役職だったなあとしみじみ思います。

誰にでもできるからこそ、自分らしい形も模索して、当たり前のことを1番やりきらなければならない、ということに気がつかされました。

丹青之信

勝手に落ち込む毎日の中で、自分自身に変化が起こり始めました。

夜、布団に入り目をつぶっても、寝られなくなりました。

やっと、眠りにつけても、15分程で目が覚める。起きていても、漠然とした不安が押し寄せる。

運よく眠りにつけても、夢をみるようになりました。

追いかけても追いかけても追いつかず、先輩が暗闇に消えていく夢。

後輩に、もっと楽しくバスケがしたかったと言われ、突き落とされる夢。

何度話しかけても、同期に声が届かない夢…。

そんな夢をみては、ハッと目を覚まし、時計をみると15分しか経っていない。

そんな毎日を続けていると、耳鳴りと目まいが続くようになり、ある時、左耳が聞こえなくなりました。

もう一度確認させてください。

逃げ出したかったとか、苦しかった、という話ではありません。

心の底から、成長できたな、良い経験だったなと胸を張って言うことができます。

私の友人は、え、嘘でしょ、悩みなんてあったの!って、思うかもしれません(笑)

私自身も、こんなにもキャパが狭くて、自分の感情をコントロールするのが下手だとは思いませんでした(笑)

頑張れ、とか、大丈夫?とか、そんな愛のある言葉が、その時の私には最も怖い言葉だった気がします。

あと何を頑張れば良いのか、大丈夫じゃなくなっていることを突き付けられている気がして。

そんな私を、誰よりも理解してくれていた同期のみんなには感謝を伝えても、伝えきれません、何をしても、足りません。

誰よりも4年間努力をし続けて、部員全員の気持ちになろうとしてくれるニコ、理解して、もう頑張らなくていいよって、一緒に頑張るよって言ってくれて、そばにいてくれて、ありがとう。

我慢と葛藤の連続だったと思うけど、部の顔として、目標だった応援されるチームに最も貢献してくれたスイ、いつも味方でいてくれて、人に頼るのはへたっぴなくせに頼ってねって言ってくれて、ありがとう。

熱い闘志は隠しつつも、冷静に状況を見て、思ったことをしっかり言ってくれる沙樹、何も言わず一緒にいてくれて、安心させてくれて、いつも沙樹の存在に救われてました、ありがとう。

板ばさみになったり、嫌われ役になったり、抱え込むものも大きかったカイ、負担と感じていたことを一緒に背負ってくれて、ありがとう。

この時期のわたしはモットーに反して、不機嫌を伝染させるような人間だったと思います。

そんな私を温かく広い心で受け止めてくれて、その優しさに救われて、もう一度だけ、最後に頑張ってみようと思うことができました。

どうしても同期の話が多くなりますが、後輩のみんなにも感謝の気持ちでいっぱいです。

それぞれが、各々角度で葛藤していたと思います、我慢していたと思います、模索する毎日だったと思います。

それでも、チームのために行動し続けてくれたこと、支えられて、救われ続けていました。

こんなにもかわいくて、大事で、大切な後輩に出会えると思ってもいませんでした。

現役中に恩返ししたかったけど、しきれなかったから、引退してから、少しずつでも、何か返していけたらと思っています。何度も言ってるけど、これからも絶対的な味方でいます。そして、心の底から、応援してます。

大好きな、自慢の後輩です

長々と失礼いたしました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。

小学校6年生の時から問い続けた「4番の似合う人になれていたか」は分かりません。

それでも、たくさんの人の支えのおかげで、「4番に誇りを持つ」ことはできたような気がします。

最後になりますが、遠方より会場まで足を運んでくださった方、応援してくださった方、支えてくださった方、関わってくださった皆様、本当にありがとうございました。

慶應義塾バスケットボール部に12年間携わり、やっと、ほんの少しだけ、意義や強みが分かったような気がします。これから、少しでも恩返しできるよう、自分自身と向き合い、成長し続け、精進してまいります。

ありがとうございました。