- ブログタグ: ラストブログ
ラストブログ 甲谷勇平
2021年3月11日 16:28| Comment : 0

はじめに
2020年度チームの主将を務めました甲谷勇平です。今シーズンは、新型コロナウイルスの影響により活動が制限されてしまい、たくさんの苦労をしました。そんな状況下でも、いつでも力になってやると心強い言葉をかけてくださったOB・OGの方々、オータムカップや早慶戦を運営してくださった関係者の皆様をはじめ、慶應バスケ部に関わる全ての人に心より感謝致します。本当に有難う御座いました。何度も心が折れそうになったシーズンでしたが、皆様の支えがあり、なんとかやり遂げることができました。
今回、卒業ブログということで、僕の4年間を振り返りたいのですが、一つひとつを振り返ろうとすると、とてもこのブログに書き切ることができないため、今回は僕が4年間向き合い続けてきた「慶應バスケ部が存在する意味」について書きたいと思います。1年だけ主将を務めた分際で何を生意気な、と思われる方もいるかもしれません。ですが、僕にとって慶應バスケ部は自分を変えてくれた、生涯恩返しし続けたいチームです。僕はたくさんの学びを慶應バスケ部から得ました。そのため、慶應バスケ部が在る意味というのをここに自分の言葉で残しておくことが、僕にとってのひとつの恩返しであると思い、卒業ブログとしてまとめました。ですので、本ブログでは僕の4年間を「慶應バスケ部が存在する意味」という切り口で振り返っていきたいと思います。
「慶應バスケ部」に触れた瞬間
1年目はとにかく慣れることに精一杯でした。朝練をして、急いで着替えて電車に駆け込み、授業を受け、急いで体育館に行き、夜遅くまで練習して。怒涛の1年間を過ごしました。リーグ戦期間にもなると、毎週土日に試合があり…。精神的にも大変きつかった1年目だったと記憶しています。
そして次の年、チーム哲学を軸にしたチームづくりが為されました。その時に初めて僕は「慶應バスケ部」に触れました。確かに1年目も「慶應バスケ部」に関する理念や哲学といった話は聞きましたが、そのような情報が頭に入る余裕はありませんでした。すみません。2年目は授業や部活動にも慣れ、少しずつ余裕が出てきていました。その時に、チーム哲学というものを改めて聞きました。僕が最初に「慶應バスケ部」に触れた瞬間でした。チーム哲学の話を聞いた感想としては、「わからん…」でした。これは、諦めとか理解できないということではありません。ただ、「慶應バスケ部」という組織の目的や哲学があまりにも当時の自分とかけ離れていて、その差に愕然としました。一番難しかったのは、自分がチーム哲学を体現していると思っていても、他者からは体現できていないと言われるというような認識のズレがたくさん生じたことです。まさに「何が正解かがわからない」という状態で、自分が正しいと思っていても先輩から怒られる日々でした。2年目は「正解がわからない。もしかしたら、正解がないかもしれない」チーム哲学について同期でたくさん頭を悩ませました。

一人一人が本気でチームと向き合うからこそ、先輩後輩関係なく深い繋がりができるのだと思います。
そんなこんなで2年目と3年目もあっという間に過ぎ去ってしまいました。今振り返ると、この2、3年目は楽しさよりも苦しさの方が多かったように思います。チーム哲学に関する苦悩もありましたし、自分自身の怪我もありました。そうした小さな悩みが積み重なって自分本来のプレーもわからなくなっていました。そんな中で先輩やコーチからは「もっと同期やお前たちの代になった時のことも考えろ」と言われ、「自分がやらなきゃ」という責任感に反して、満足にプレーできていない自分がいて、「本当に自分で大丈夫なのかな」と焦りも感じていました。そんな苦しいとき、いつもそばにいたのは同期でした。時には強く同期に当たってしまった時もありました。むしろ強く当たった回数の方が多いです。そんな自分勝手な僕を同期はいつも受け止めてくれ、時には怒ってくれ、時には一緒に悩んでくれました。

2020年度の「慶應バスケ部」
ここで、慶應バスケ部の2020年度を振り返りたいと思います。振り返りたいというか、振り返らなければならないと思います。理由は、2020年度は新型コロナウイルスの影響により、誰も経験したことのない年になったからです。そこで、2020年度の僕と「慶應バスケ部」をここに記します。
2020年度のチームは2019年度のチームが終了した3日後には新チームでの練習を開始しました。他チームと比べてレベルが圧倒的に低く、そもそも試合ができるようなチーム状態ではありませんでした。ですので、例年よりも早く練習を始めるのは必然的なことでした。そして、地獄のような練習が始まりました。毎日体の中にあるエネルギーを全て使い尽くし、体育館を出る頃には体力も精神もカラカラの状態で帰宅していました。平日毎日6:30からの朝練はもちろん、週6日のウエイトトレーニング、そして午後の自主練習。まさにバスケ漬けの日々でした。そして、新入生も迎えてさらにギアを上げていこうとした時、コロナはやってきました。
「明日からバスケ部は活動を自粛する」。監督からの一本の電話によって突然次の日から活動を自粛することになりました。僕たちの当たり前だった日常が突然目の前から姿を消しました。当たり前のようにバスケットボールをしていた日々。部室でくだらないことで笑い合っていた日々。全てが一瞬で目の前から姿を消してしまいました。その時は失望とか悲しいという感情はありませんでした。ただただ「無」でした。最初は「どうせすぐに活動再開するだろう」と半信半疑でした。でも、日を追うごとに増加する感染者数を見て「無」は「危機感」へと変わりました。他部活では、大会が全て中止になってしまい、自動的に引退を迎える仲間もいました。「明日引退になるかもしれない」。そんな危機感が僕の中にはありました。「引退したくない」「コロナに負けたくない」。気持ちばかりが先行してしまい、心に頭が追いつかずに風呂で一人泣きました。当然のように6月末に早慶戦があり、そこから夏のオフ期間でみっちりトレーニングをして、秋からのリーグ戦を迎えるものだと思っていました。でも、それができなくなりました。活動自粛期間、オンライントレーニングでPC上からではありますが、みんなを見ると、画面越しであるにもかかわらず、みんなを見れただけで気持ちが落ち着きました。それぐらい僕は自粛期間、精神的に不安定な時期を過ごしていました。
そんな僕でしたが、自粛している間、大切にしていた考えが2つありました。それは「明日引退になるかもしれない。だから、いつ引退しても後悔しないように、毎日できる限り最大の努力をし続ける」ということ。もうひとつは「コロナだったからできなかった、ではなくコロナがあったからこそできたことがある」という考えでした。この2つの考えが当時の僕の支えとなっていました。
コロナで大会がなくなる懸念もあった中、なんとかオータムカップと早慶戦を開催することができました。そして、早慶戦が終わり、最後のサークル。僕は何を言おうかとずっと前から考えていました。でも、考えれば考えるほどわからなくなり、そのときに思ったことをそのまま言おうと決めていました。そして臨んだ最後のサークルで僕が一番初めに言った言葉は「もっとみんなとバスケがしたかった」でした。心からそう思いました。「明日引退になるかもしれない。だから、いつ引退しても後悔しないように、毎日できる限り最大の努力をし続ける」「コロナだったからできなかった、ではなくコロナがあったからできたことがある」とか関係ありませんでした。とにかくもっともっともっともっとみんなと悩んで、苦しんで、笑いあって、楽しんでバスケがしたかったです。そんな感情が最後のサークルでは一気に溢れ出してしまいました。2020年度の「慶應バスケ部」は恵まれていたと思います。オータムカップだけでなく、僕たちは最後に早慶戦という試合を行うことができました。だから僕が「もっとバスケがしたかった」と言うと怒られるかもしれません。ですが、これまでの当たり前だった日常をコロナは奪っていきました。当時は悔しくて仕方がありませんでした。しかし、ずっと下を向いていてもいけません。引退した今の僕の気持ちは、コロナのおかげでこれまでの当たり前の尊さを学ばせてもらった、「コロナありがとう」です。コロナがなければ風呂で泣くこともありませんでした。ですが、コロナがなければ、当たり前のようにバスケをしてしまい、引退した後「もっとやっとけばよかったな」と後悔していたかもしれません。コロナがあったおかげで、僕は4年間の「慶應バスケ部」人生を今は後悔なくやり遂げることができたと思っています。今は2020年度の「慶應バスケ部」が苦しんでいた時、たくさん支えてくださった全ての方に感謝の気持ちでいっぱいです。本当に、本当にありがとうございました。

慶應バスケ部が存在する意味
最後に僕の卒業ブログのタイトルである「慶應バスケ部が存在する意味」について書きたいと思います。結論としては、「慶應バスケ部に関わる全ての人がバスケットボールという手段を通して繋がり、成長の源泉になるために存在する」ということです。つまり、慶應バスケ部に関わる全ての人の成長剤となるために存在しているということです。慶應バスケ部に所属する部員は日々の練習やミーティングを通して多くのことを学びます。それはOBになっても変わりません。OBとなった今も、慶應バスケ部で学んだことを言語化したり、経験したことを次に活かしたりと、慶應バスケ部を起点に学びをさらに深めています。そして、応援してくださる人にとっても、慶應バスケ部の泥臭いプレーを見て、何かを感じ取ってもらえれば、それが成長の糧となるかもしれません。このように、慶應バスケ部は関わる全ての人の成長の源泉として在り続けなければならないと考えています。これがこの卒業ブログで伝えたかった一番のメッセージです。だから、どれだけ失敗しても、どれだけ挫折してもいいと僕は考えています。なぜなら、それらは全て成長の源泉となるからです。失敗や挫折は成長への一番の近道だと思います。失敗を恐れて遠回りするよりも失敗をしてそこから学べば遠回りする必要はありません。だからいっぱい失敗をしましょう!(笑)そして、失敗をみんなで許容して笑い飛ばすような慶應バスケ部であってほしいと思います。
最後に
大変長い文章になってしまい大変申し訳ございませんでした。そして、書き殴ったような無秩序な文章で大変読みにくかったと思います。ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。最後にメッセージを述べて僕の卒業ブログを締めさせていただきます。
まずは後輩たちへ。2020年度は先が見えない中、チームの方針がコロコロと変わり、一貫性に欠ける代だったのにも関わらず、必死についてきてくれて有難う。みんながいなければ2020年度の慶應バスケ部はなかった。これからも楽しさよりも困難なことの方が多いと思う。でも、その困難はその時は苦しくても後に振り返ると絶対に成長につながる困難だったことがわかる。だからいっぱい失敗して、みんなでいっぱい悩んでほしい。その分だけチームが良くなって、自分も成長できるから。成長するための近道はたくさん失敗すること。
同期へ。いつもどんなときもそばにいてくれてありがとう。普段恥ずかしくてありがとうなんて伝えられないから、ここで言わせてください。俺はかなり気難しくて、周りに振り回されやすい、面白くない関西人だったと思う。でも、そんな俺をみんなは決して見捨てることなく、信頼してくれ、一緒に4年間歩んでくれた。本当にありがとう。家族よりも長くて濃い時間を過ごした同期。みんなとはもう言葉を介さずとも分かり合えてる自信がある。それぐらいみんなとは濃い4年間を過ごせた。これからもよろしくです。
最後に家族へ。長いようで短いバスケットボール人生でした。今振り返ると、勇平(家では自分のことを「勇平」と呼んでいます)のバスケット人生は苦労の方が多かったように思います。でもみんなは、勇平がどんなに苦しんでいても家に帰った時は暖かく迎えてくれて、本当に感謝しています。いつもみんなの応援はしっかりと届いていました。選手としての人生には一区切りをつけますが、今後は甲谷勇平人生の第2章が開幕します。また今後とも変わらずお世話になります。これまでありがとう。これからもよろしく。
以上で僕の卒業ブログを終わりたいと思います。本当にありがとうございました。“さようなら”という言葉は嫌いなので“また会いましょう”。
ラストブログ 藤井陽右
2021年3月6日 18:00| Comment : 0

はじめに
慶應義塾大学法学部政治学科4年の藤井陽右と申します。バスケ部では副将を務めさせていただきました。
今年はコロナウイルスの影響で試合ができるかどうかも怪しまれましたが、オータムカップと早慶戦を無事に行う事ができたのはOB・OGの方々や全ての関係者の方々のご尽力があったからこそだと思います。
記念館での早慶戦、このような最高の舞台で大学バスケの幕を閉じる事ができた事、本当に感謝しています。ありがとうございました。
大学バスケ生活の4年間、終わってみると早かったような気もしますが、振り返るとやはり様々な事がありました。
拙い文章ではありますが、私が引退して感じた事を素直に書いていこうと思います。最後まで読んでいただけたら幸いです。
私の誇り
下級生の頃、同期のミーティングでこのような話題がありました。
“引退したときに、「みんなともっとバスケがしたかった、このチームでよかった」そう思えるようにしたい。”
学生スポーツにおいて一生懸命に努力をすれば、大抵の場合、最後にはこのように思うのかもしれません。しかし、同期のブログでも書かれていたようにポンコツでどうしようもない代だった私たちは、最後に「やっと終わった、ただただ過酷な生活だった」、そんな風に終わる未来が見えていました。
粗相をしては仲間を非難するようなミーティングを行い、同じミスを繰り返す。さらには完膚なきまでにやられた新人戦、これらは私たちをそう感じさせるのに十分すぎるほどでした。
しかし、私たちの引退試合となった12月19日の早慶戦、日吉記念館に試合終了のブザーが鳴り響いたとき、下級生の時に見えた未来はありませんでした。
僕らは涙でいっぱいでした。早慶戦に負けた悔しさ。このチームでもうバスケができないという想い。もっとみんなとバスケがしたかった。早稲田は強かった。本当に悔しかった。
しかし、終わった時に後悔はありませんでした。全てをやり切った、胸をはってそう言えるからです。
これは私の14年間のバスケ人生を気持ちよく締めくくりたいという強がりなんかではありません。
確かにチームは負けてしまったし、自分自身も先輩である工藤さんや友樹雄さんのように4年生になって大活躍ということもできませんでした。
しかし、今まで積み重ねた練習やミーティングによる成果が試合に現れていました。同期と、後輩たちと創り上げたチームで慶應らしさを発揮する事ができました。負けた悔しさはあっても後悔はありません。心からやり切ったと思えています。

このように感じる事ができたのは、何度も繰り返し行ったミーティングがあったからこそだと感じています。
新チームになり、慶應義塾の目的やチーム哲学など、慶應バスケ部としてどうあるべきか、どうなりたいかを大真面目に話し合ってきました。そしてチームスローガン「徹」を掲げ、3部優勝、早慶戦優勝を目標に走り始めました。
慶應義塾の目的やチーム哲学などをとことん話し合い、その上でチームスローガンなど必要あるのかという話にもなりましたが、今ではこのスローガンは最高に気に入っています。私たちの代を象徴するようなスローガンになりました。
一人一人が自分にしかできない役割に徹する、塾生としてあるべき姿、やるべきことを徹底するという意味が込められています。
私たちはつくづく問題の多い代でした。しかし、学連にいながらも常に核心を突くような指摘をしてくれる前田のおかげで、正しい方向を向くことが出来ました。津野地が様々な手法を提案し、個人の役割の明確化を進めてくれました。急に役割と言われ悩む部員も多くいましたが、何でも話せる杉田の存在に救われた人も多いと思います。また、木村のように後ろから支える存在がいなかったら、一丸となって早慶戦は迎えられなかったでしょう。岩片の後輩を巻き込む努力は確実にインサイド陣をレベルアップさせ、純平が寮生の食事指導などを行ってくれたおかげでチームの底上げにつながりました。そして、熱い気持ちでチームを引っ張った寺部、圧倒的なリーダーシップを発揮した甲谷、みんなの力でチームを創り上げました。同期一人につき一つのブログが書けそうですが、長くなってしまうので止めておきます。
私は真面目だけが取り柄のような副将で、彼らほどチームに貢献できていたのかどうかわかりませんが、この最高の同期とバスケができて、本当に幸せです。個人的に何か誇れる結果を残せたわけではありませんが、この最高のチームを共に創り上げたことは僕の誇りです。ありがとう。

後輩たちへ
先輩方は私たちにたくさんのものを与えてくれました。慶應バスケ部の進むべき道を示してくださった鳥羽さん達(2019年卒)。早慶戦優勝というかけがえのない瞬間を共有させてくださった純さん達(2020年卒)。

早慶戦優勝を経験できたことは本当に人生の宝です。
コロナ禍で試合ができるかわからない中、今後の慶應バスケ部が強くなる土台を作っていこう。そんな想いももって取り組んでいました。もちろん私たちの代は完璧ではなかったし、悪い部分もあったと思います。後輩たちには、チームメイトと話し合い、悩み、楽しみながら走り抜けて欲しいと思います。
引退した今、現役たちに口出しする事は何もありませんが(相談があれば是非のります)、これだけは覚えていてい欲しいです。
私たちはどんな状況でも君たちの味方です。
これは新人戦に完敗したときにあるOBの方がかけてくださった言葉ですが、非常に心強かったので是非後輩にも知ってほしいです。責任を感じすぎる事はありません。失敗しても同期と前を向き続ければ素晴らしい経験が得られるはずです。
今年もコロナウイルスの影響で先行きが見えないけど、全力で楽しんでほしい。応援しています!
最後に
ここまで書きたい事を素直に書いてきましたが、読み返すと主語がほぼ「私たち」になってしまっていたので、最後に少しだけ自分自身のことについて書きたいと思います。
以前「身体づくり」というブログで書かせていただいたのですが、私は高校のバスケにおいて身体づくりで挫折してしまいました。うまく言葉では表せませんが、私はこのままでは一生バスケに対する敗北感を背負って生きていく事になってしまうような気がしました。もちろんレベルの高い大学でバスケをしたいという気持ちもありましたが、そんな想いを払拭したいという考えが強かったです。
しかし、大学バスケ部に入部してすぐにそんな考えは飛んでいきました。高い志をもった同期と共に過ごし、自分も早慶戦やリーグ戦にプレーで貢献したいと考えるようになりました。当たり前だと思う方も多いと思いますが、私にとって高校での挫折はとても大きなもので、自分にとっては大きな変化でした。
先ほど、誇れる結果を残せたわけではないと述べましたが、こんな私にとって最後に早慶戦のコートでプレーできたことは誇れることでした。同期の支えがあったからこそ私は努力し続けることが出来ました。最後の年、自分たちでチームを創り上げていくあの過程は、バスケ人生の中で最も楽しかったです。かけがえのない経験をありがとう。
最後に最も近くで支えてくれた家族にこの場を借りてお礼をさせてください。
支えてくれてありがとう。
ラストブログ 岩片悠馬
2021年3月1日 14:45| Comment : 0

はじめに
誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。
私、本年度慶應義塾大学環境情報学部4年ならびに、体育会バスケットボール部所属の岩片悠馬と申します。
卒業ブログを書くにあたって、私は常に環境に恵まれていたなぁとつくづく思いましたので、そのことに触れながら自分のバスケ人生について振り返っていきたいと思います。
2019年の早慶戦後にもブログを書かせていただいているので、少々重複する部分もございますが、どうぞ最後までお付き合いください。
高さ
私が大学バスケで選手を続けてこられたのは、元をたどれば身長と少しだけジャンプ力が高かったことにあります。私は身長が188センチで大学バスケではそれほど高い方ではなく、むしろ平均くらいだと思います。
私が一年生で入部した当時、私の身長は188センチでした。下級生の中では私が最長身でしたが、当時のバスケ部には、4年生に190センチを超える選手が3人いらっしゃいました。従って、次の年にはその3人が卒業してしまい、私がチームで最も身長の高い選手になってしまうわけです。
実は私が初めて試合に出してもらったのは1年目の5月末で、同期の中では一番早かったような気がします。他の同期に比べ、技術も経験も劣る自分が、第4ピリオド残り少ないタイミングで試合に出ることができたのは、ただ高さによるものだと思います。
実際に4年生が卒業してから少しずつ試合に出していただける機会が増えましたが、どんな時も私の役割は高さを生かしたリバウンドでした。
メンタル面での問題が多かった自分が、選手としてチームに所属できていたのは、たまたま高さがあったからであり、同期はもちろんですが特に先輩方には迷惑をかけっぱなしだったと思います。
新型コロナウイルス
環境に恵まれたという話をする上で、コロナについて取り上げるのは少々不謹慎かもしれませんが、コロナがあったからこそできたことが、多々あったのも事実です。
2020年の試合数が減ってしまったこと、体育館で仲間と会って練習する回数が極端に減ってしまったことは残念でした。しかし外出や練習ができない分、ミーティングやチームについて考える時間に多くの時間を費やすことができました。
今年のチームにはスター選手がおらず、よりチーム力が必要とされるチームでした。
もちろんその認識は全員にあり、コロナで練習ができなくなるまでの練習では全員がとにかく頑張っていました。しかし、ただ練習の場で頑張るだけでそれぞれが考え必死に取り組んでいるわけではないので、どこか空回りしていました。
もしコロナがなかったらその状況が長く続いてしまっていたと思います。最終的に誰一人欠けることなく全員がそれぞれの役割に「徹」するチームが出来上がったのはコロナ禍でそれぞれが考え直すのに、十分すぎる時間ができたことにあると思います。
今年のチームにとってコロナがマイナスではなくプラスであったのは間違いないと思いますし、そう言い切れるくらいに後輩たちも必死についてきてくれていたと思います。
2020年の早慶戦は結果を悔しいものになってしまいましたが、それぞれが役割に「徹」した間違いなく最高の試合でした。
この最高の早慶戦が引退試合になったのもコロナがあったからこそです。
人
私のバスケ人生は本当に「人」に恵まれていたと思います。バスケを始めるきっかけを作ってくれた小中学校時代の仲間や、私のわがままに真剣に向き合ってくれた高校時代の仲間も素晴らしい人ばかりでしたが、ここでは大学バスケ部で出会った「人」について書かせていただきます。
〜先輩〜
他の人のブログを読んだ方ならもうご存知かもしれませんが、慶應のバスケットボール部は、常にチームのことにチームにいる意味ついて考えることが当たり前であり、それぞれが強い意志も持って活動しています。それを自分よりも早く始め、長く経験している先輩方が偉大であることは疑いようもなく、毎日が学ぶことばかりでした。
それに加え本塾バスケ部の先輩方は、後輩を気にかけてくれる先輩ばかりでした。プライベートでも本当にお世話になりましたが、問題ばかりだった私を見捨てず自分事のように向き合い、アドバイスや注意をくださる方ばかりで何度も助けていただきました。時には厳しい言葉もいただきました。
その中でも私が2年の時に当時4年生だった小川さんと鳥羽さん(共に2019年卒)に部室でお叱りを受けたときのことは良く覚えています。トレーニング中に問題を起こしたことについての注意をきっかけに、私の部に対する姿勢についてまで話が広がりました。その際に、今のまま成長したところで、引退後もお前のことを応援したいとは思わないといったご指摘をいただきました。
この言葉が私の考え方、姿勢が変わるきっかけになりました。この時、同期の津野地も一緒だったのですが、先日津野地とあった際もこの時の話をしました。それほど印象的な出来事だったわけで、改めてそういった注意をいただける先輩方と出会えたことのありがたみを感じました。

〜後輩〜
強い意志と最上級生すら引っ張っていきそうな勢いを持った3年生、爆発力に加え高さもあり、能力者揃いの2年生、コロナで秋からの入部であったのにも関わらず、見事にチームに足りなかったピースを埋めてってくれた1年生、後輩には本当に恵まれていました。
今年のチームは責任感の大きい仕事を後輩に任せることも本当に多かったと思います。
特にスタッフが少なく、学生コーチやトレーナー、主務などの重要な役割や仕事も下級生に頼っていました。
チームを作る上で重要な仕事が多かったので、下級生に任せていいのかわからず、ミーティングも何度もしましたが、今では任せてよかったと思っています。
プレー面でも、今年の走るバスケを40分間100%で続けることができたのは、全員が試合に出ることの出来る体力、走力に加えそれぞれの武器を磨き、層の厚いチームになったからです。
長いプレータイムと責任に悩んだ人、少ないプレータイムで力を出し切りチームのために「徹」してくれた人、それぞれに多くのことを求めてきました。もちろん選手スタッフ問わず何があっても責任は4年がとるから思い切ってやって欲しいとはいっていましたが、それぞれにかかっているプレッシャーは相当なものだったと思います。
1年間ついてきてくれてありがとうございました。引退後も応援し続けたいチームです。

〜同期〜
同期として一緒に活動してきた仲間は個性豊かで素晴らしい人ばかりでした。特に最後まで一緒に走り続けてきた9人は大学生活で得た最も大切な宝です。杉田もブログに書いていましたが、本当に家族のような存在です。気を使わずなんでも言い合える関係にある友が、たった4年間で9人も増えることなんて今後の人生では起こらないと思います。それだけ充実した4年間をともにした同期には感謝しかありません。
ブログを読んでいただく方にはそれだけ大切な仲間に恵まれたことが伝われば十分なので、それぞれに対する思いはここでは伏せておきます。気になったら直接話す機会に聞いてください。答えるかはわかりませんが(笑)。

最後に
引退してからもう2ヶ月以上が経ちました。今は、中学からバスケを始めて以来、久しぶりにバスケから少し距離を置いた生活をしています。バスケのある生活、常に成長できる環境に置かれたバスケ人生が、どれだけ充実したものだったのかを実感しています。しつこいようですが本当に環境に恵まれていました。
もちろん、背が低かったら、コロナがなかったら、周りの人が違う人たちだったら、今恵まれていたと思っている環境と異なる環境に置かれていたとしても、それはそれで、自分が置かれた環境を恵まれていると思うかもしれません。「背が低かったから〇〇できた」や「1年間体育館での練習が続けられたから〇〇できた」と感じ、もしかしたらそっちの方がうまく行ったこともあるのかもしれません。
それでも、実際に振り返ってみて、この環境が間違いなく一番だったと思えるような経験ができたという事実が最も重要なのだと思います。
そう思うことができれば、すべてのことに感謝ができると思いますし、その後にどんなことが起きたとしてもそれをプラスにとらえる、成長のきっかけにすることだってきます。
素晴らしいバスケ人生、大学生活を送ることができました。
本当にありがとうございました。
そして、これからも慶應義塾体育会バスケットボール部への応援をよろしくお願い致します。
ラストブログ 木村直哉
2021年3月1日 14:18| Comment : 0

はじめに
誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。慶應義塾大学法学部政治学科4年の木村直哉と申します。大学1,2年次は一貫校コーチを務め、3,4年は大学バスケ部にてアナリストの活動をしておりました。
大学バスケ生活最後の年は新型コロナウイルスの流行により、様々な活動が制限されてきました。そのような状況の中でも、「早慶戦」という伝統の一戦を最後に引退することができたのは、すべてOB・OGの方々や家族の支えがあったからこそだと感じています。本当にありがとうございました。
前回のブログでは「4年生になって見えてきたこと」として自分の経験やチーム哲学の話を長々と書かせていただきました。少々考えすぎてしまい、逆に読みにくい文章になってしまったため、今回は特に考え過ぎずに書きたいと思います。(笑)
拙い文章ではございますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
孤独感
入部当初、私は多くの同期、先輩に囲まれながら、「孤独感」を感じていました。チームメイトから仲間外れにされていた訳ではありません。私が「人を頼ることができなかった」のです。
昔から人一倍負けず嫌いだった私は「出来ない」という言葉が嫌いで、出来るようになるまでひたすら自分で乗り越えようとしてきました。そうしているうちにいつしか「誰かを頼ること=逃げ」という考えが染みついていました。高校生までは、この考え方で何とか生きていけました。しかし、大学に入るとこの考え方では限界が来ます。1つの授業時間は高校の1.5倍ほど長く、試験範囲は何倍にも膨れ上がりました。それに加え、人生で出会ったことが無いほどハイレベルな人達がいるバスケ部での活動です。当時の私は限界を迎えていながらも、「誰かに頼ること=逃げ」という考えから抜け出すことが出来ずにいました。
その時私が取った行動は、人と距離を取ることです。大学1年生の頃、私たちの代は問題ばかり起こしていました。同期ミーティングが頻繁に開催され、誰かが非難されている姿を何度も見てきた背景があり、次に対象になるのは自分ではないかという不安からの行動です。この結果、私は「自分は何の為にバスケ部にいるのだろう?」という自己嫌悪に陥りました。自分の存在意義が分からなくなり、チームメイトにも頼れない。そんな状況がしばらく続きました。
出会い
自分の存在意義を見失った私に転機が訪れます。それは阪口明大(あきひろ)さんとの出会いです。この方は日本体育大学のバスケ部出身で、現役時代はアナリストとして活躍されていました。明大さんは、大学3年次(2019年)の早慶戦の前の3か月間、私たちのチームの助っ人に来てくださっていました。
明大さんは、何も出来なかった私にアナリストとしての知識や技術だけでなく、スタッフとしての在り方などを叩き込んでくださいました。それまで、誰とも絡もうとしてなかった私に対しても「木村、今日何してる?」と声を掛けていただき、3か月間ほぼ毎日一緒にいた記憶があります。朝練後から夜の練習前まで練習やチームについての話し合いをずっとしていました。そのような生活を続けていると、徐々に自分の出来ることが増え、チームの輪に入れるようになりました。
この時、私は誰かに頼ることの大切さを学びました。自分で出来ることには限界があり、誰かから教わることも一つの手段だと考えるようになりました。
明大さんとは4年生になっても個人的に連絡をさせていただくことも多く、最後まで大変お世話になりました。本当に感謝しかありません。
同期の存在
自分に出来ることが増えてくると、またしても「人に頼れない」という悪い癖が出てしまいます。「自分で出来る事は自分でやった方が早い」という思考回路に陥ったのです。そのため、最上級生として下級生の面倒を見てあげなければいけない立場にも関わらず、そこまで手を回すことができませんでした。気付くとスタッフから退部者が出ており、もっと色々声を掛けていたら…と後悔が残りました。
そんな私を変えるきっかけをくれたのが同期です。彼らは新型コロナウイルスの影響で目標であった2部昇格の道が絶たれ、早慶戦の開催も怪しくなっている状況下でも常に前を向いていました。
「大会が中止になった今、後輩に何が残せるか?自分たちの代はこの先の慶應バスケ部が強くなるための踏み台になれればいい。」
このような話し合いをしたのを今でも鮮明に覚えています。
この頃から、私がこれまで明大さんにしてもらってきたことを後輩に還元しなければならないと気付かされました。
その後は、それまで一人で行っていたこともなるべく後輩に任せてみることにしました。
「失敗しても当たり前。上級生である自分がどれだけ面倒を見れるか。」
そう考えながら、なるべく成功体験を積ませてあげられるよう試行錯誤しました。もちろん、誰かのミスでチームに迷惑が掛かったら、その責任は自分にあります。その分、二度手間だと思われようとも、入念にサポートをしなければなりません。時間を惜しみなく使い、明大さんの教えを少しずつ還元していきました。
このようなことを日々繰り返しているうちに、時はあっという間に流れ、気付くとバスケ人生に幕を閉じていました。

最後に

4年間を通して自分自身の弱さと何度も向き合わされたバスケ生活でした。それも全て、自分よりも優れた人が沢山いる集団の中に身を置いたからこそ得られた経験だと感じています。
このような環境下でも最後まで続けることができたのは、扱いにくい私を受け入れてくれた同期のおかげです。本音を言い合える関係を築けた同期は一生の宝です。コロナ自粛後に何の気遣いもなく「めっちゃ太ったな」と言ってくれる同期にはそうそう出会えないと思います。(笑)
私たちの同期は全員、何事も思い通りにいかない4年間を過ごしてきました。特に最後の一年間は同期だけでなく、チームメイト全員にとって苦労の多い年でした。しかし、どれだけ苦しい1年間でも、私にとっては試合に勝った後の仲間の喜ぶ姿を想像すれば、何も苦痛には感じませんでした。
最後の早慶戦で全員の笑った顔を見て終えたかったというのが本音ではありますが、昨シーズンのチームでやれることを全てやった結果なので、後悔はありません。あのチームでバスケが出来たことが本当に幸せでした。
最後になりますが、今の「木村直哉」という人間が形成できたのは、これまで関わってきた方々のお陰です。先輩方、同期、後輩、様々な人と出会えたことは私にとってかけがえのない財産です。この先も社会人として慶應バスケ部に何かしらの形で恩を返していけたらと思います。
長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。引き続き慶應義塾體育會バスケットボール部の応援を宜しくお願いいたします。
ラストブログ 寺部勇佑
2021年2月24日 20:51| Comment : 0

はじめに
新型コロナウイルスにより世界が一変した2020年。
そして現在も、緊急事態宣言が発令され、制限される毎日。今もなお、多くの方々が私たちの生活を支えてくださっています。この場を借りて、感謝申し上げます。
今シーズンは、多くの大会が中止となる中、Autumn Cupと早慶戦を無事開催することができました。ご尽力いただいた関係者の皆様にも重ねて厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
人生のほとんどをバスケットボールと共に過ごしていたため、現在の何もない生活にとても違和感を抱きながらラストブログを書こうとしています。
偉そうなことを言えたり、誇れるような実績を残したりしたわけでもありませんが、そんな私が今、感じたこと、様々な想い、私たちの軌跡をラストブログで残していきたいと思います。
拙い文章で恐縮ですが、最後までお付き合いください。
私たちの最後の1年
12月19日に行われた早慶戦で私、寺部勇佑の15年間のバスケットボール人生に幕を閉じました。私のバスケットボール人生を一言で表すと「あっという間だった」この言葉に尽きると思います。
今まで生きてきた中で最も濃い時間を過ごしたのが慶應義塾大学での4年間でした。
その中でも最後の1年。2019年度のリーグ戦が終わり2日後に始まった新チーム。右も左もわからずに始まったチーム作り。毎朝6時半に集合し、慶應義塾の目的から慶應義塾體育會の理念、チーム哲学など、塾生としてあるべき姿を追求し続け、全員が納得するまで同期と共に毎日のようにミーティングをしていました。
“今年の慶應義塾體育會バスケットボール部が目指すチーム像って何だろうか”
“目標を達成するためにやらなければいけないことは”
“俺たちの存在意義って”
“最上級生としてやるべきことは”
“どうすればチームは勝てるのか”
などなど、話さなければいけないことは山積みでした。1つずつ私たちの代なりの答えにたどり着き、その中で決まった“徹”というチームスローガン。一人一人が自分自身のチームでの役割を認識し、責任を負い、責任を全うするチーム。そして、塾生としてあるべき姿の徹底。一人一人が最大限の努力をし、早慶戦優勝、2部昇格を達成する。
2年前、鳥羽さん(2019年卒)を始めとする先輩方が示してくれた慶應義塾體育會バスケットボール部のあるべき姿。先輩たちがいたから今の私たちがいると言っても過言ではありません。
そして、1日1日が一瞬で過ぎていき、少しずつチームが前進していることを実感しながら、初の大会まで1ヶ月のところで、新型コロナウイルスの感染拡大防止のための活動自粛の発表。
すぐ活動再開になるだろうと思いながらも、その気持ちとは裏腹に新型コロナウイルスの脅威は私たちを襲い、全てが一瞬にして崩れる感覚。再開の目処がなかなか立たず、正直なところ、もうこのままバスケはできないのではないかと思っていました。
しかし、同期をはじめとする、部員全員、誰も下を向いていませんでした。活動再開後のために、自分たちができる最大限の努力をしていました。
今、振り返って考えてみると、この活動自粛している期間がチームの結束力をさらに強くし、成長させたのではないかなと思います。
およそ5ヶ月が過ぎ、やっと練習が再開されました。みんなに会えて嬉しかったし、バスケットボールが楽しかった。今でも当時のことを覚えています。

そして、全員で乗り越えられないと思っていた多くの壁を乗り越え、やっと辿り着いた12月19日。部歌を歌う声が鳴り響く日吉記念館で、これまでの辛かったことや苦しかったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、様々な出来事がフラッシュバックし、涙が溢れました。
「ここまで長かったな」という想いと共に「もう終わりなのか」という複雑な気持ち。
仲間が気づいていたかはわかりませんが、涙を流さないように必死に我慢していました。(多分バレていないはず、マスクもしていて顔も隠れていたので…)
試合前に泣くなよって思う方がいらっしゃると思いますが間違いないです。その通りです。しかし、それほど今年は1戦1戦に対しての想いが強かった。コロナ禍でいつ引退が宣告されるかわからない中、来るべき早慶戦に向けて部員全員、関係者の方々が最善の準備を進めてきました。両校の関係者から新型コロナウイルスの感染者が出ず、多くの奇跡が重なり開催された今年の早慶戦。涙を堪えきれなかった。
結果としては、68-91で負けてしまいました。とても悔しかったです。この1戦に向けて全員が最高の準備をして挑みました。試合中何度も相手の背中が見えたと思ったら、その度に離され、早稲田の強さを痛感しました。本当に悔しかった。
しかし、今年の慶應が目指していた堅守速攻、全員バスケ、練習で取り組んできたことを全て出し切ることができました。綺麗事と言われるかもしれませんが、悔いなく私たちの代のバスケットボールを終えることができました。
1番長かったようで1番短かった1年。それほど濃い1年を過ごしました。
最高の仲間と共に泣いて笑って過ごせたこと、本当に幸せでした。

後輩に伝えたいこと
私が、後輩に伝えたいことは1つだけです。それは「全力で楽しめ」ということです。
今年は例年と違って、スーパースターやエースがいないチーム、全員で戦わなければ勝てないチームでした。
そのため、辛い練習を多くしました。トレーニングをたくさんしました。ミーティングをたくさんしました。バスケの戦術で覚えることがたくさんありました。
大変なことがたくさんあったと思います。その中で、モチベーションをどれだけ上げられるかは自分次第です。自分自身は下級生の頃、全くできていませんでした。偉そうに言える立場ではないですが、そんな私から言わせてください。
「全力で楽しめ」
どうせやるなら楽しんだ方がいいし、辛いことも苦しいこともあると思うけど、仲間と一緒に楽しんでやったらなんとかなります。
今年、自分はみんなのおかげで楽しくバスケができました。本当に楽しかった。本当にありがとう。来年は快と小澤が中心となってやると思いますが、気負うことなく、何事も楽しみながら頑張って欲しい。
来年度こそ、2部昇格、早慶戦優勝が達成できると信じています。
応援しています。

最高の同期たち
先輩方にたくさん迷惑をかけたのは俺たちの代。
ポンコツな代、どうしようもない代と言われた俺たちの代。
その中でも同期に一番迷惑をかけたのは間違いなく俺だと思います。
たくさん迷惑をかけたけど、それでも見捨てずに接してくれてありがとう。
4年間、たくさん泣いて、たくさん苦しんだ。
みんなと一緒だったから乗り越えられたんだと思う。
4年間、たくさん笑った。
みんなと一緒だったから笑えたんだと思う。
照れ臭いので、ここまでにしておきます。
これだけ言わせてください。
みんなと出会えて俺は幸せだ!!!
両親へ
お父さんとお母さんのおかげで15年間、大好きなバスケットボールをすることができました。
小学生の頃から、どんな試合会場でも、自分が試合に出ていようが出ていなかろうが応援しに来てくれてありがとう。僕にとって、一番の応援団でした。
また、大学3年の夏、バスケを辞めたいと言った時。止めてくれたこと本当に感謝しています。あの時辞めていたら一生後悔するところでした。
15年間のバスケットボール人生、悔いなく終えることができました。
本当にありがとう。
さいごに
大学4年間、OBの方々をはじめ多くの方々にお世話になりました。
本当にありがとうございます。
昔から憧れていた慶應義塾大学のユニフォームを着て、戦えたことを誇りに思います。
そして、同志と共に肩を組み歌った若き血、絶対忘れません。春から社会人の予定です。同期の津野地も言っていましたが、この4年間で得た考え方や経験を胸に、日々精進していきたいと思います。そして、いつか恩返しをしたいと思います。
私のバスケットボール人生は多くの方々の支えがあってのものでした。
バスケットボールが多くの方々との出会いを与えてくれました。
バスケットボールが多くの経験を与えてくれました。
バスケットボールは私の青春でした。
今まで本当にありがとうございました。
バスケットボールとみなさんに出会えたことに感謝。
ラストブログ 津野地宥樹
2021年2月15日 11:31| Comment : 0

はじめに
誠に僭越ながら自己紹介させていただきます。
慶應義塾大学法学部政治学科4年の津野地宥樹と申します。
現役時は選手と広報担当を兼任させていただいており、昨年末に行われた早慶戦を以て引退となりました。
昨年は新型コロナウイルスの流行により様々な活動が制限され、試合が出来ずに引退するスポーツ選手が多くいた中で、無事トーナメントと早慶戦を行うことが出来ました。
これはOB・OGの方々や父兄、応援してくださる皆さんのご尽力があったからこそです。誠にありがとうございました。
そして現役時代、私が広報担当として先輩方に執筆をお願いしていたラストブログ。
早いもので自分が書く側になり、改めて4年間を振り返りました。
「こんなにも自分のことを見つめ、省みた日々はないだろう。」
私の大学生活はそんな4年間でした。
1年生時から3年生時にかけて味わった挫折は以前 ブログ に書いてしまったので、今回はその挫折を含めた4年間での経験の中でも、特に重要だと感じるものを3つだけ紹介したいと思います。
最終的に誇れる結果を出すことが出来なかった私ですが、少しでもこの文章を見てくれている人のためになれば幸いです。
チームにいる意味とはなにか
これは前回のブログにも書きましたが、私が4年間を通して最も自分に問いかけてきた言葉です。
ただ闇雲に頑張るのではなく、自分はなぜチームに存在しているのか、どうやって存在意義を発揮し、チームに貢献していくかひたすら考える。
そして周囲を観察・分析し、それらと照らし合わせた上で自分の長所を徹底的に伸ばす。
この考えが自分よりレベルの高い集団で存在意義を発揮するためには、非常に重要であるということを学びました。
身長が184cmと大学バスケットボール界では標準かむしろ小さいくらいの私が選手として存在価値を発揮するためには、人よりも筋肉が付きやすく体重を増やしやすいという強みを徹底的に磨く必要があると考えました。
そこで、筋トレに打ち込むのは勿論のこと、スタッフに協力してもらいダミーやポールなどで実際にコンタクトをしながらプレーをする練習や、時には1食で牛丼特盛と並盛りを同時に食べたりしたおかげ(せいで)、一時期は184cm97kgとあともう一歩で0.1トンに迫る程体を大きくすることができました。
ここまで体重を増やし過ぎてしまうと、逆にスタミナやクイックネスが失われてしまったため最終的にはパワーを発揮しつつ長時間走れる体重まで落としましたが、この「フィジカルの強さ」を評価してもらえたからこそ、全く練習にも入れなかった私が部内戦や試合に少しではあったものの出していただけるようになりました。
また、こうして長所を伸ばし機会を貰えたことで、徐々にではあったものの短所であったシュート力なども向上させる事が出来ました。
このような経験を通じて、ただ闇雲に全てを頑張って自分の短所を平均点に近づけられるよう努力するよりも、周囲より少しでも秀でている長所を見つけ徹底的に伸ばす。そうすることで、チームで存在価値を発揮する事が出来るし、短所克服にも繋がるということを学ぶ事が出来ました。

正解のない努力
これは大学に入学してから一番戸惑ったことです。
大学入学まで、勉強ではあらかじめ用意された教科書やテキストを暗記し、解法を身につけることが正解とされていましたし、部活動ではコーチが決めた練習スケジュールや指針をより高いレベルで体現する事が正しいとされていました。
しかし体育会バスケットボール部では、何をして、何をしないかまで全てを学生が主体となって決めます。
そのため、時には練習をせずにミーティングをして本気でぶつかり合うこと、休養をとることをもありました。
また、ダンスを練習に取り入れてみたり、勉強会を開いたりすることだってありました。
このように正解なんてものは存在せず、無限にある選択肢の中から自分やチームが心の底から「これだ!」と思えるもの納得のいくまで徹底的に話し合い選びとる必要がありました。
そして一度この道で行くと決めたら、揺るがない覚悟と共にその選択を成功へと近づけるよう努力し続けるのです。
私にはこの正解のない中から自ら道を選びとり、努力するという姿勢が圧倒的に欠如していました。
そのため1年生時は、実力がないのにも関わらずただ単に練習に参加するのみ。先輩から何度も指摘を受けましたが、何をどう頑張れば良いのか自分では分からないという始末。
その後前回ブログに書いたような紆余曲折を経て、チームで存在価値を発揮するために選手とスタッフを兼任するという少し変わった立場を選びました。
しかしそこからも順風満帆というわけにはいかず、スタッフとしての仕事の比重が重くなってしまい、当時の先輩たちから「選手としてチームにいるからにはもっと選手として出来ることを最大限努力しろ」と注意を受けてしまいました。
それからはどうしたら選手とスタッフを両立できるか必死に考え、自分の中でルールを作りました。
そうして踠きながらもスタッフを兼任し、選手から一歩俯瞰してチームを見ることで、以前まで見えてこなかったことに気づき行動できるようになりました。
このように、自ら考え抜き、覚悟を決めて一つの道を選ぶ。
そして選んだ道を一歩でも正解に近づけられるよう努力した経験というのは、自分にとって大きな転換点となりました。
友
今まで偉そうなことをつらつらと書いてきましたが、この4年間で得られた最大の財産は「友」です。
まさか自分がこんなクサいことを言うとは現役時は思いませんでしたが、引退した今、胸を張ってそう断言する事ができます。
この「友」というのはバスケットボール部の先輩、同期、後輩、そして同じスポーツに大学生活を捧げる同志である他部活のことを言います。
公私共に数えきれないくらい様々なことを教えてくださった先輩方、苦楽を共にした同期、私なんかのことを慕ってくれた可愛い後輩、そしてバスケットボール部にいるだけでは気づけなかった視点を与えてくれた他体育会生。
友との出会いは刺激に満ち溢れ、私の世界を広げてくれました。
また、友の存在があったからこそ、僅かではあるものの成長することが出来ました。
これからは、自分と繋がってくれた人たちに少しでも刺激を与えられ、恩返しが出来るよう自己を磨いていきたいと思います。

最後に
私は約1ヶ月半後の4月から社会へと羽ばたきます(卒業できれば)。
そこでは、今までと同じかそれ以上に自分よりも能力のある人達と出会い、挫折し、悩むだろうと今の時点から確信しています。
ただ私には体育会バスケットボールで培った経験があります。
この4年間で得た考え方や経験に誇りを持って、時には友に頼りながら社会に貢献し続け、そして、出会う人たちに「慶應義塾体育会バスケットボール部出身の人はさすがだね」と思ってもらえるような人間になることで、このチームに恩返しをしたいと思います。
ラストブログ 前田琉我
2021年2月12日 18:47| Comment : 0

はじめに
誠に僭越ながら自己紹介をさせていただきます。
私、本年度慶應義塾大学経済学部4年ならびに体育会バスケットボール部所属の前田琉我と申します。
ブログの投稿は、今回の卒業ブログで2回目になります。
このブログを書いている現在は、卒論を提出し終え、卒業できるか不安を抱えながら、家の近くを散策したり、10キロ走ってみたり、筋トレに励んだりと、引退ライフを送っております。
今年度の早慶戦はインカレ後に開催だったため、大会期間中は朝4時起きで始発に乗り込み朝練へ、帰りはインカレ準備等でほぼ終電帰り、または学連事務所に泊まりこんで作業をし、再び朝練に行くという怒涛の日々を送っていました。
そんな生活を当たり前のように過ごしていましたが、現在では毎朝8時ごろに起きる生活になってしまいました。
先代の先輩方のように胸にジンジン伝わってくるような内容の濃い文を書けるか不安ですが、自分なりに4年間体育会に所属してきた想いを書こうと思います。
僕、個人のSNSや前回のブログの内容と重なる部分が多々あると思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
4年間振り返って
僕にとって体育会バスケ部での4年間は、めちゃくちゃ長かったような、あっという間だったようなよくわからない感じです。
前回のブログでも記述した通り、僕は、選手として入部し、途中でスタッフ(学連派遣)に転向しています。
ほとんど前回ブログで体育会バスケットボールライフを振り返ったので今回は学連での生活を振り返ることにします。
僕の体育会活動の80%は学連であったため、シーズンが始まるとほとんど放課後の練習には参加できずに、渋谷の学連事務所で大会準備の作業に取り組む日々でした。
そのため、後輩たちは僕のキャラがいまいち把握できず、コミュニケーションをとりづらかったのではないでしょうか。
毎年秋に開催されるリーグ戦期間は対戦相手チームの戦術を分析し、対策をすることが練習の中でメインとなっています。
その中で、選手もスタッフも全員が相手の戦術を覚え、チームの勝利のために最大限の努力と最高の結果を出すように努めています。
しかし、僕自身はそれを全く把握することができていませんでした。
僕自身も、秋のリーグ開催まで余裕がある夏は動きを覚えることに努めていました。
しかし、大会が近づくにつれて新しい戦術、新たに追加されていく練習メニューなどは毎回初見のものばかりで、放課後練習に参加できた日はこのチームに自分の居場所はないな…と非常に肩身が狭かったです。
それでも自分自身がチームに何か提供できることはないかを考えて行動してきました。
練習に参加できる時間は朝練のみだったので、選手たちが来る前に体育館に行きモップ掛けをしたり、練習の準備をしたりと、練習のサポートを中心に取り組んでいました。(最上級生として取り組んでいることがものすごく初歩的ですよね…)
その他にも、学連の面でサポートは全力で取り組んでいました。(詳しくは前回のブログを読んでいただければと思います。)
本当にこれでチームにプラスになっているのか?と何度感じたかはわかりません。
同期のスタッフの木村はアナリストとして相手チームの戦術を選手たちに伝え、マネージャーの杉田も選手たちのテーピング、練習中の審判、事務作業など多くの仕事をこなし、周りからも信頼が厚く、まさに『最上級生』という姿でした。
チームや選手たちへの貢献度の大きさを比べると月とスッポンです。
現役最後の年で新型コロナウイルスの影響で大会が中止になり、練習が再開されたのも夏からで時間が刻一刻と過ぎていく中、諦めずチームをサポートしてきた二人には感謝です。
もちろん、一番大会ができずに苦しむ選手たちも、熱意を切らさずに最後まで駆け抜けたのはすごいことだと思います。
僕にとってチームのみんなのおかげで、大会準備をしている中でも、毎日頑張ろうと思うことができました。
学連での生活
学連では財務部に所属し4年間活動をしていました。
4年生のときには、三役(全日本学連の学生副委員長)を務め、インカレの大会開催に向けて準備・運営を行っていました。
「三役」??という方もいると思うので、「三役」について少しだけ説明いたします。
簡単に言うと日本全国の大学バスケットボール部が所属している連盟が主催する大会(インカレ、日韓定期戦の李相佰盃など)を中心となって取りまとめる学生役員の3トップです。
文章だけだとめちゃくちゃ重役じゃない?!と僕自身も感じますが、そこまで、日本全国の大学バスケ部を牛耳ってあれだこれだ!とやっていたわけではありません。
学連に所属しながらの生活は、ほぼ休みなしの状態で、チームの方がオフであっても、学連の方で大会の方針を決める理事会が行われたり、大会の準備を部署ごとに集合し、準備を行なったりしなければならない日もありました。
Instagramのストーリーで楽しそうに映る同期の飲み会やご飯にも参加することができず、何度もチームに戻りたいと思いました。
それでもめげずに4年間取り組んでこられたのは、慶應の学連の先輩方と同期のおかげだと思っています。学連に転向して間もないときには、山本さんや服部さん(共に2018年卒)から励まされたり、ご飯に連れて行ってもらったり、自身も頑張ろうと思えました。
学連業務を学んでいくうえで、お二方の偉大さはものすごかったです。
観客や協賛企業とのお付き合いする上での人としての振る舞いから、お酒や食事の場での振る舞いまで多くのことを学ばせていただきました。
また、片桐さん(2020年卒)は、僕にとって兄貴のような存在です。
同じ財務部に所属していたこともあり、ほとんど学連での生活では苦楽を共に過ごしました。
僕が1、2年生の時はたくさん面倒を見てくださり、財務部での仕事を手取り足取り教えてくださいました。
直属の先輩である財務部の山本さんから説教を受けているときも一緒でした。(本当にあの時の山本さんはめちゃくちゃ怖くて、普段名前呼ばれただけでも背筋が凍り付きましたね。)
チームに戻りたいと不安定であった時期でも傍にいてくださり、本当に感謝しております。
また、時たま放課後練習に参加できたときに温かく迎え入れてくれた同期にも感謝しています。
学連には様々な大学から派遣される人たちで構成されています。
彼らは僕とは全く異なる背景で、各大学から学連に派遣されていることを、学連に入って知りました。
僕の場合は、学連業務がない日は部活に参加し、チームをサポートしています。
これが「チームの一員」として当然のことだと、学連に入たばかりのころは思っていました。
しかし、ほとんどの大学は、チームには一応在籍しているけど、練習に参加したことがなかったり、練習参加禁止というような規制でチームに顔を出したことがないというような人たちばかりです。
そんな中で、僕は自チームが大会会場に来た時には同期が「おつかれ!」と言ってくれたり、差し入れをくれたりと、チームメイトは会うたびに自身の心の支えになっていました。
また、生でチームの試合を観れた時には、同期が出場し活躍する姿、ベンチで声を張り上げる姿を見て心が熱くなりました。
本当に同期に恵まれたなと思います。

記念館に行けば、特に気を遣うこともなく自然と迎え入れてくれた彼らには感謝しかありません。
4年間の中で、個人的には特に最後の年が一番辛かったです。
それは、新型コロナウイルスの影響で試合が次々と中止になったこともありますが、それに加え、学連の三役として、この社会情勢の中でインカレの大会が開催できるのかが非常に不安だったことが大きな要因です。
例年通りであれば、協賛企業や報道関係者とのやり取りは4月ごろから取り掛かります。
しかし今年は10月ごろまで協賛が下りなかったり、11月まで有観客なのか、無観客なのかが決まらなかったりと、例年通りの運営方法とは全く異なる、ゼロから自分たちで運営を組み立てていく体制となりました。
会場内でのチーム関係者と報道関係者が接触しないような導線経路の策定から、審判関係者・チーム関係者・協賛企業の方の席の配置など、めちゃくちゃ細かいところまで確認する必要がありました。
そのために何度も公共の体育館の打ち合わせに行き、時には理事の方々と協力をして、大会開催中まで試行錯誤を繰り返し、選手たちが安全に試合を行えるように取り組み続けました。
本当に理事の方々のご協力のおかげで、何とか大会を無事開催することができました。
その他にも、会場に来ることができない観客の方たちへSNSを利用して大会出場チームのブログを作成してもらったり、Instagramの公式アカウントを開設したり、新たな取り組みも行いました。

インカレ期間中の1週間の合計睡眠時間は20時間くらいでした。
そんなキツイ期間でしたが、自分たちで大学バスケの最高峰の大会をゼロから作り上げる充実感と、無事に大会を最後までやり遂げることができた達成感は言葉で表せないほど素晴らしかったです。
この4年間で、ものすごく貴重な経験をすることができました。(インカレが終わった次の日の朝練は寝坊してしまいました…)

最後に
長々とした文章を書いてしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回のブログで選手からスタッフへの転向した動機や振り返りをほとんど書いてしまったので、今回は学連での生活面での振り返りがメインとなってしまいました。
この4年間でOBの方々、両親、先輩方、学連関係者の方々に大変お世話になりました。
最近では僕のようなスタッフでもブログを書く機会を与ええてくださり、フォーカスされやすい選手と比べて、黒子であるスタッフが大学スポーツのすばらしさを発信できるようになりました。
CS Park for Studentの清野咲歩さんの記事やインカレブログの東海大半杭くんのブログを読んでみてください。
半杭君のブログに関しては、作成時に添削等で協力させていただき、拝読した際に僕自身が感動しました。
最近では「学連に入りたいです。」という下級生も増えましたし、今後、大学スポーツがさらに発展できるいい機会だなと思います。
これから、体育会の道を切り開こうとしている人たちへ。
僕が体育会生活4年間通して感じたことは、一人ひとり役割がそれぞれ異なり、自分自身が一番「これならだれにも負けない!」、「これなら熱中して頑張れそうだ!」というものを見つけてひたすら追求することがチームへのプラスになるこ鍵になってくるのではないかなと思います。
必ずしも、「選手が花形でかっこいいから、自分も選手で!」というわけではありません。
やはり、向き不向きや体格差、経験値の差など大学のレベルまでになると一人ひとりの背景や置かれていた環境は全く異なるので、同じチームに所属していてもバスケットボール選手としての完成度、そして人間的な特徴は全く違います。
その中で自分が秀でているものを見つけることで、自然とチームに貢献するために自分は何をすべきなのかが見えてきますし、それがどんなポジションになっても自分の役割を全うすることで体育会生活は面白くなってくると思います。
先輩方を見ていても、全部できるオールラウンダーより、とにかくルーズボールだけは絶対に負けない人、バスケの試合が好きすぎて3度の飯より試合だ!という人、やたらトレーニングに詳しく、食事の知識も豊富に持っている人など、ニッチな分野でも秀でている人の方がチームへの貢献度はめちゃくちゃ大きかったと思います。
学連がかっこよかったかどうかは、わかりません。選手のようにファンが駆けつけて、プレゼントを渡されたり、写真やサインを求められたりするわけでもないですし、黄色い声援が飛び交うこともありません(笑)
しかし、最大限の努力と最高の結果を追い求める姿勢を忘れずに取り組めば、誰も軽蔑することはないと思いますし、自信につながると思います。
学連の宣伝みたいになってしまいましたが、やはり大学スポーツは選手だけじゃなく、スタッフも非常にやりがいはあると思います。
これから入部を考えている方も、何かスポーツで熱中したいと思ったら、選んでみるのもいいかもしれません。
・千葉ジェッツでご活躍されている学連の先輩、清野咲歩さんの記事:https://studens.cs-park.jp/topics/78
・東海大半杭君のブログ:https://jubf.jp/column/detail/id/37
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
ラストブログ 杉田雅虎
2021年2月6日 21:43| Comment : 0

はじめに
2021年になったものの社会の情勢はあまり変わらず、もどかしい日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
初めに、自己紹介をさせていただきます。
僕は慶應義塾大学部商学部4年の杉田雅虎と申します。
僕は12月に引退し、その後一週間で3万字の卒業論文を慌てて書き上げ、現在は毎日暇な日々を過ごしております。
朝練に行き、その後授業に出席したりアルバイトをしたりと自分の時間を過ごし、昼過ぎからまたみんなで集まって夜9時まで練習していたあの長かった1日が、今では秒速で過ぎ去ってしまっています。
そんな怠惰な僕から、偉そうなことは何も言えないですし、文章力もないので拙い文章になってしまうと思います。
僕なりに4年間の想いを精一杯綴らせていただきますので、僕のことを少しでも知っている方は、何かの片手間にでも、最後まで読んでいただけたら幸いです。
慶應バスケとは
僕はSFC出身で高校のコーチが体育会に所属していたこともあって大学のバスケットボール部について興味を持つようになりました。
そして、一貫校の時から大学の試合を観戦に行っていました。
当時の慶應は、関東1部リーグに所属しており、日本の大学でもトップレベルの環境で闘っていたので、高校生の僕には勉強になることばかりでした。
さらにレベルの高い相手と勝負する中でも、ディフェンスやリバウンドなどの基本的なプレーを徹底しており、ルーズボールに飛び込む姿には単純に憧れを持っていました。
また、一貫校交流で高校の練習に来てもらった時などに話す大学の先輩方は、バスケットが上手いのはもちろんのこと、面白い人ばかりで、そういった人間性の部分にも憧れを抱いていました。
僕らの高校のコーチをしていただいていた山崎さん(2016年卒)も、バスケットボールとお笑いという2つの面で尊敬していました。
そんな冗談はさておき、実は僕が大学のバスケ部入部したのは、ある試合を観戦したことがきっかけになっています。
それは、2016年のインカレでの白鴎大学との試合です。
格上の相手に本塾の鬼気迫るディフェンスや、気持ちでねじ込んだようなシュートがことごとく入り、本塾がリードした状態で試合は終盤を迎えていました。
しかし、そこから白鴎大学の反撃にあい、あと一歩のところで本塾は敗れてしまいました。
試合が終わると僕は目頭が熱くなってしまっていました。
さらに会場から出ようと席から離れると、試合を観ていた中島さん(2016卒)が僕に握手をしてきてくださり、高校生だった僕に「見に来てくれてありがとう」と声をかけてくださいました。
僕はこの瞬間、誰からも応援される慶應バスケ部の一員になりたいと強く思うようになりました。

4年間
そして無事大学に進学した僕は、体育会バスケットボール部に入部しました。
入部した当初は、高校と環境が大きく激変し、毎日を過ごすのに精一杯でした。
SFC高校という閉鎖された環境で過ごし、なおかつバスケットボールのレベルも大学とは比べものにならないくらい低い環境で高校時代を過ごしてきた僕は、同期や先輩との価値観や考え方に違いがありすぎて、戸惑うことばかりでした。
そのせいもあり、チームや同期にたくさん迷惑をかけてしまうこともしょっちゅうでした。
それでも「常にチームのために自分ができることを考える」という慶應バスケのチーム哲学のもと、自分なりに自らを律し、仲間と支え合いながら、必死に毎日を過ごしていました。
そんな僕も気づけば最上級生になり、気づけば引退試合である早慶戦の試合開始のブザーがなっていました。
いろいろなことがありすぎて逆にあっという間の4年間でした。
そんな4年間の中で、一番思い出に残っているのは3年生の時の早慶戦です。
私は最初から最後まで、早慶戦の運営に携わらせていただきました。
協賛金を集めるために多くの企業に掛け合い、何度も会場の早稲田アリーナに足を運んで、大会当日の段取りや照明・音響を確認したり、カメラマンの導線を決めたり、さらには応援部の人との打ち合わせ、会場のセッティングも行いました。
早稲田大学の学生より、早稲田大学のキャンパスに行っていたかもしれません。
試合前は試合運営業務に加えて、スカウティングの仕事も手伝っていたので、生まれて初めて自分を2つに分身させたいと思うほどの忙しさを経験しました。
しかし、周りの人が協力してくれたおかげで、僕自身忙しくはあったものの、辛いとは思いませんでした。
そして挑んだ早稲田大学との伝統の一戦。
試合に勝利したときの感動は今でも鮮明に覚えています。
コートにいる選手、ベンチにいる選手やスタッフ、そして相手ホームにもかかわらず大声援を送ってくれた慶應の観客席の方々が、文字通り一つになっていました。
あんなに嬉しくて、興奮して泣いてしまうような日は、これからの人生においてもなかなかないと思います。
また、3年次の早慶戦以外にも、4年間を振り返ると様々な思い出が蘇ってきます。
特に最後の年は新型コロナウイルスの影響で練習ができない日々が続き、自分は4年生としてチームになにができるのだろうと思い悩むことが多かったです。
それでもやっぱり自分は悩んでいても何もならないと思ったので、自分なりに今できることをやろうという思いで最後のシーズンを過ごしてきました。
多分それでは物足りなかっただろうし、できていなかったことも多くあったけど、なんとか最後までやってこられたのは、本当に多く人に助けられていたからだと思います。

人の出会いと経験
突然ですが、僕は同期の岩片みたいにダンクもできないし、(藤井)陽右みたいに3ポイントを量産できないし、甲谷みたいな立派なふくらはぎは持ち合わせていないです。
しかし、この4年間振り返って自分が胸を張って誇れることがあるとするならば、多くの人に出会い、多くの事を経験してきたことです。
これは自分がすごいのではなくて、ただ運が良かったのと恵まれた環境にいたからだと思います。
たくさんのOBの方とも関わる機会をいただきましたし、早慶戦という70年以上続く大会の運営もさせていただきました。
時にはトレーナーとして選手のテーピングをしたり、トレーニングを管理したりもしました。
一貫校の小学校から医学部体育会まであらゆる慶應のバスケットボールチームに訪問し一緒にバスケをしましたし、時には地元のミニバスや慶應とは関係のない中学・高校でもバスケをしました。
小学校の体育の授業にお邪魔してバスケを教えさせていただくこともありました。
他にも大学バスケ部のTwitterやInstagramの立ち上げにも携わらせていただきましたし、時にはバスケットボールの映画の撮影の手伝いにも行きました。
僕は4年間で、思い返したらキリがないくらいたくさんの経験をさせていただきました。
その時僕は常に先輩やOBから頼まれたこと、自分でこれはやったほうがいいなと思うことを無我夢中でやるだけでした。
もちろんうまくいかないことも多かったし、今思えば非効率だったなとも思うこともありました。
でもコートに立って活躍するわけでなはない自分がチームのためにできることは、自分がチームに必要だと思うことをひたすら取り組むことだと思います。
自分のことよりもチームのことを優先するのは難しいですが、とりあえずやってみようと思うことで少しはチームのために動けたのではないかと思います。
このたくさんの経験の中で、本当に多くの方とお会いさせていただきました。
他の大学のマネージャーや学生コーチの友人たちと話すことは自分の中で刺激になりましたし、OBの方から聞く昔のバスケ部の話も非常に参考になる部分が多かったです。
クリニックで会う小学生からは癒しをもらい、真剣に部活動に取り組む中高生に会うと、どこか懐かしい気持ちになり自分も負けていられないなという感情にもなりました。
この4年間での人との出会いや様々な経験は自分の財産であり、自慢できることだと思っています。

感謝
最後にこれまでお世話になった人に感謝を述べたいと思います。もう少々お付き合いいただけると幸いです。
〈先輩方へ〉
まずは先輩方、今まで本当に本当にお世話になりました。仕事できずに怒られたり、ナメた態度をとって怒られたりと、怒られた記憶ばかりが蘇ってくるのも今となっては良い思い出です。
同じスタッフだった、加藤さん(2018年卒)、宇野さん(2019年卒)はとても優しく?面白くて尊敬できる先輩ですし、小川さん(2019年卒)は誰よりもチームのことを考えていらっしゃいました。
時には厳しい指摘をしてくださる偉大な先輩方には感謝してもしきれません。
1つ上の野田さんや鈴木さん(共に2020年卒)には、迷惑をかけてしまうことも多々ありましたが、面倒見がよくて人との関わり方も上手く、たくさんのことを2人から学ばせていただきました。
そして小祝さん(2020年卒)ですが、小祝さんがバスケ部にいてほんとによかったと思っています。
周りのフリに耐えきれず?失礼な態度ばかりとってしまい、正直嫌われているのではないかと内心心配していました。
しかし無事に、誰からも愛される小祝さんと一緒に、高校大学とバスケ部で過ごすことができ、ほっとしています。
もちろんその他にも、多くの選手やスタッフの先輩にお世話になりました。
本当にありがとうございます。
なかなか人に会いづらい社会情勢ですが、落ち着いたらいろいろな先輩方とお会いしたいです。

本当にどの先輩も大好きで楽しかったのですが、特に小祝さんはほんとのお兄ちゃんのような存在で、小祝さんのいないラスト1年は重圧がすごかったです。
〈後輩へ〉
後輩のみんなにも感謝しています。
3年生2人は少ない人数で大変だろうけど、気負いしすぎず頑張って欲しいです。
2年生は本当にみんな変わっているけど、その個性を爆発させて頑張って欲しいです。
僕は相談に乗るような先輩じゃないので、美味しいもの食べたくなった時や、一緒に馬鹿なことしたいと思ったら連絡してもらえればと思います。
1年生とは合流が遅かったこともあり、正直あまり仲良くなれなかったけど、まだまだこれからなので、無限大の可能性と目標持って、楽しんで頑張ってほしいと思います。

同期へ
同期には普段言わないですが、一番感謝しています。
入部当初から問題児だった僕に、優しく接してくれました。
4年間、毎日朝から晩までずっと一緒にいた家族のような存在です。
同期が試合に出て活躍することが何よりも嬉しく、あんなに練習しているのに試合になかなか出られない姿を見るのはほんとに悔しかった。
先輩やOBにお前らの代は大丈夫なのかと心配されることも何回かあり、その度に複雑な気持ちになっていたけれど、ラストイヤー同期全員が中心になって活躍している姿を見ると感動しました。
実はオータムカップ初戦の帝京平成戦から泣きそうになっていました。
暑い日も寒い日も雪が降った日も、自主練やシューティング一緒にやってきてよかったと思いました。
最後早稲田に負けた時も、もちろん悔しかったけど、やりきれたと思えたのはみんながこれまで、それぞれ自分のやるべきことを全うしてきたからだと思います。

最後に
先輩・後輩・同期以外の方にもたくさんお世話になりました。
OBの方は、バスケ部の現役はすでに引退し、普段は忙しく仕事をされているにもかかわらず、親身になってアドバイスをしてくれました。
他の大学のスタッフの方々や、学連の方々もそれぞれの立場で大学バスケを盛り上げていて仲間だと思っています。
間違いなく僕が大学バスケに関わった4年間で大学バスケのコンテンツ力は上がっていると思いますし、アマチュアスポーツの持つ価値は、これからもっと多くの人に見出されていくと思います。
それから、応援部の方にもお世話になりました。
早慶戦に勝てたのも応援部の方のおかげだと思いますし、試合にこなくてもSNSなどで僕らの活動を広めてくれるなど、様々な取り組みをしていただきました。
最後に、毎日朝早く家を出て夜遅くまで帰ってこないで、親孝行と言えるようなことはなにもしてこなかったにも関わらず、応援し続けてくれた家族。
そして、部活ばかりであまり会えなかったのに自分を応援してくれ、時間を見つけては一緒に馬鹿騒ぎしてくれた友人にも感謝しています。
もしバスケ部に入っていなかったら、こんなに多くの経験をすることができなかったですし、充実した日々も過ごせませんでした。
そして学業にも支障をきたし、研究会にも入れていなかったと思います。
正直大変なことの方が多かったけれど、辞めたいなんて一度も思わなかったのは、周りの人に支えられていたからだと思います。
4年前にもう一度戻り、もし大学生活やり直すとしても、もう一度体育会バスケットボール部に入部していると思います。
それほど、体育会バスケ部での4年間は自分にとって、充実した時間でした。
長くなってしましましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
これからもぜひ、慶應義塾体育会バスケットボール部の応援をよろしくお願いいたします。